(劇評・12/19更新)「明日の自分はざっくり言えば他人」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2020年12月5日(土)よりオンライン公開の劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』についての劇評です。

YouTube動画として配信されている劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(作・演出:内尾涼介)は、とある高校のSF研究会を舞台にタイムマシンという空想的な道具立てを使ったドタバタ喜劇だ。「親殺し」というテーマはいかにも哲学っぽくて深刻そうなのに対し、20歳前後らしい役者たち3人の演技はやる気なさげな脱力系。そのギャップから、ブラックな笑いが滲み出ていた。だが、単なるコメディーではない。作品を通して、自分が自分であることの根拠がどこにあるのかを必死で手探りしているような気配を感じた。

タイトルにもなっている「親殺しのパラドックス」とは、タイムマシンで過去へ行き、自分が生まれる前の親を殺した場合、自分の存在は消滅するのか、それとも歴史は変えられないため、何らかのストッパーが働いて殺せないのかという定番の問いかけだ。SF研究会に所属する小野(山岸光)は、親殺しのパラドックスを解明するため、自分でタイムマシンを開発した。と言っても、大がかりな装置ではなく、100均で売っているような電卓にライトをくっつけた程度の代物。燃料もプルトニウムなどを使うはずもなく、単なる電池だ。それを持って久しぶりに部室へ来ると、部長の坂本(内尾涼介)が暇そうにしていた。

優柔不断な小野は、親殺しの実験をやろうかやるまいかと迷うが、とりあえず初めてのタイムトラベルへと出発する。すると、入れ違いに未来から小野の息子・純一(新田龍一)がやって来た。彼も親殺しのパラドックスを解明するため、自分の父親を殺しに来たという。親譲りの実験精神というか、同じことを考えているあたりはさすがに親子、血は争えない。だが、息子の方がほんの少しだけ本気度で上回るようだ。純一はカッターを逆手に構えながら、父親を追いかけ回す。ついに捕まえて刺した時、画面が真っ暗になり、一瞬、世界が終わったのかと思った。だが、彼らが慌てている声だけは聞こえる。やがて画像が乱れたようになり、再び何事もなく元に戻ってしまった。純一は確かめるつもりで何度か刺してみるが、そのたびにプレイバックされ、元に戻る。どうやら、殺すことができない説が実証されたようだ。

途中で幕間狂言的に挿入される坂本のエピソードも面白かった。彼は、30年前からずっとSF研に語り継がれてきた「生首マン」に関心を抱いていた。その秘密を探りにタイムマシンで当時へ向かったところ、生首マンの正体が自分だったことを知る。そんな話、現実にはありえないと思われるかもしれないが、例えば、自分がちょっとした憶測で流した情報がSNSで次第に尾ヒレが付いて拡散され、巡り巡って巨大なデマとなって返って来るみたいなケースに近いのではないか。実は自分が発信源だった、と後で気付く、みたいな。ここでは、インターネットの普及によってグラグラと揺れ始めたアイデンティティ(自己同一性)の不安が比喩的に語られている。

さて、親殺しの実験が無事に終わってめでたし、めでたし、かと思いきや、小野の好奇心はとどまるところを知らない。さっそく次に取りかかる。今度はわりと即断即決ですぐに出かけて行き、さっさと戻って来た。彼は一体何をやったのか?翌日、小野と坂本が部室で暇そうに喋っているところへ、昨日の小野が入って来た。昨日の小野は今日の小野を刺そうとする。今日の小野は当然ながら、昨日の小野が来ることは知っていた。「自分」殺しの実験が始まる……。

昨日の小野が殺しに来た時、今日の小野は、あ、来たか、という感じで怯える様子もなかった。親殺しに関する実験結果から、自分は死なないと信じているのだろうか。息子がいたこともわかり、将来は安泰だと強気にもなっているのか。しかし、小野が殺そうとしているのは、時間差はあるものの、自分であり、結局は「自殺」なのだ。にもかかわらず、まるで他人を殺すようにあっけらかんと出かけて行く後ろ姿が興味深かった。今日と明日の自分が同じ自分であると頭ではわかっていても、実感としてつながっていないのではないだろうか。なぜこうも他人事なのだろう。現代の若者たちにとって、自らのアイデンティティに執着するエネルギーが弱くなってきているような気がした。いやむしろ、SNSで複数のIDを自由に操る彼らにとって、「明日の自分」もたくさん存在する自分の一つに過ぎず、気分次第で削除してもなんら問題はないのかもしれない。彼らは生まれた時からすでにネットを使うことが当たり前だった、デジタル・ネイティブの世代なのだ。これは新しい感覚が出て来たな、と思った。

(以下は改稿前の文章です。)

YouTube動画として配信されている劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(作・演出:内尾涼介)は、とある高校のSF研究会を舞台にタイムマシンという空想的な道具立てを使ったドタバタ喜劇だ。「親殺し」というテーマはいかにも哲学っぽくて深刻そうなのに対し、20歳前後らしい役者たち3人の演技はやる気なさげな脱力系。そのギャップから、ブラックな笑いが滲み出ていた。だが、単なるコメディーではない。作品を通して、自分が自分であることの根拠がどこにあるのかを必死で手探りしているような気配を感じた。

タイトルにもなっている「親殺しのパラドックス」とは、タイムマシンで過去へ行き、自分が生まれる前の親を殺した場合、自分の存在は消滅するのか、それとも歴史は変えられないため、何らかのストッパーが働いて殺せないのかという定番の問いかけだ。SF研究会に所属する小野(山岸光)は、親殺しのパラドックスを解明するため、自分でタイムマシンを開発した。と言っても、大がかりな装置ではなく、100均で売っているような電卓にライトをくっつけた程度の代物。燃料もプルトニウムなどを使うはずもなく、単なる電池だ。それを持って久しぶりに部室へ来ると、部長の坂本(内尾涼介)が暇そうにしていた。

優柔不断な小野は、親殺しの実験をやろうかやるまいかと迷うが、とりあえず初めてのタイムトラベルへと出発する。すると、入れ違いに未来から小野の息子・純一(新田龍一)がやって来た。彼も親殺しのパラドックスを解明するため、自分の父親を殺しに来たという。親譲りの実験精神というか、同じことを考えているあたりはさすがに親子、血は争えない。だが、息子の方がほんの少しだけ本気度で上回るようだ。純一はカッターを逆手に構えながら、父親を追いかけ回す。ついに捕まえて刺した時、画面が真っ暗になり、一瞬、世界が終わったのかと思った。だが、彼らが慌てている声だけは聞こえる。やがて画像が乱れたようになり、再び何事もなく元に戻ってしまった。純一は確かめるつもりで何度か刺してみるが、そのたびにプレイバックされ、元に戻る。どうやら、殺すことができない説が実証されたようだ。

途中で幕間狂言的に挿入される坂本のエピソードも面白かった。彼は、30年前からずっとSF研に語り継がれてきた「生首マン」に関心を抱いていた。その秘密を探りにタイムマシンで当時へ向かったところ、生首マンの正体は自分だったことを知る。そんな話、現実にはありえないと思われるかもしれないが、例えば、自分がちょっとした憶測で流した情報がSNSで次第に尾ヒレが付いて拡散され、巡り巡って巨大なデマとなって返って来るみたいなケースに近いのではないか。実は自分が発信源だった、と後で気付く、みたいな。

さて、親殺しの実験が無事に終わってめでたし、めでたし、かと思いきや、小野の好奇心はとどまるところを知らない。さっそく次に取りかかる。今度はわりと即断即決ですぐに出かけて行き、さっさと戻って来た。彼は一体何をやったのか?翌日、小野と坂本が部室で暇そうに喋っているところへ、昨日の小野が入って来た。昨日の小野は今日の小野を刺そうとする。今日の小野は当然ながら、昨日の小野が来ることは知っていた。「自分」殺しの実験が始まる……。

昨日の小野が殺しに来た時、今日の小野は、あ、来たか、という感じで怯える様子もなかった。親殺しに関する実験結果から、自分は死なないと信じているのだろうか。息子がいたこともわかり、将来は安泰と強気にもなっているのか。しかし、小野が殺そうとしているのは、時間差はあるものの、自分であり、結局は「自殺」なのだ。にもかかわらず、まるで他人を殺すようにあっけらかんと出かけて行く後ろ姿が興味深かった。今日と明日の自分が同じ自分であると頭ではわかっていても、実感としてつながっていないのではないだろうか。なぜこうも他人事なのだろう。現代の若者たちにとって、自らのアイデンティティ(自己同一性)に執着するエネルギーが弱くなってきているような気がした。これは新しい感覚が出て来たな、と思った。