(劇評・11/18更新)「そんなので生きてるなんて言えるのか」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2020年11月2日(月)よりオンライン公開の星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』についての劇評です。

 「社会では感情を殺さなければ生きていけない」とか「マウントを取られたら冷静に取り返す」とか「高校生らしく、元気でかわいくてバカでいないと」とか、そういった言葉が学生の口から出るのを聞いて、今の学生はなんて大変なのだろうと感じた。筆者の高校生時代を振り返ってみると、自分のふがいなさを悩むことに精一杯で、自分を取り巻く社会のことなんて考えもしなかった。今の高校生達は、自分と社会、そのつながりの中で悩み、苦しんでいるのだ。星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』(演出:近吉鈴蘭、脚本・プロデュース:池端明日美)は若い世代の目に映る社会問題を示し、それらへ彼らなりに対峙する姿を描いた作品だった。コロナ禍において大人数での舞台公演は困難であるため、この作品は映像として制作され、YouTubeで公開された。

 ゾンビウイルスによって、国民が「人間」「半ナマゾンビ」「完熟ゾンビ」に分かれてしまった日本。まだ意志を持っている半ナマゾンビ達が通う星稜高校が舞台のアニメ『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』。アヤ、モネ、アリサの3人の半ナマゾンビが、たわいもない会話をしているこの動画を、イヤホンで聴きながら歩く女子高生、ルナ(松本梨留)。彼女は進路希望の用紙を提出していないため、先生(山岸光)に呼び出されていた。物理講義室に出向くも、先生はいない。スマホを取り出し、動画を見ながらルナは眠ってしまう。叫び声でルナが目を覚ますと、先生は普段の温和な姿とは全く異なる威圧的な態度で、ルナを怒鳴りつける。逃げだそうとしたルナが見たのは、ゾンビのように顔や体のただれた生徒達。進路が決まっていないルナに対して担任は「それをゾンビって言うんだよ」と告げる。気付くと自分の体も、ゾンビのようになっていた。先生に命令された優等生(直江美怜)と共にルナは、訓練を受けることになる。そこは星稜高校ではなく、ゾンビ職業訓練校という場所だった。

 心を無にして箱を移動する仕事。マウントを取ってきた相手に冷静にマウントを取り返す練習。感情を持たず、好奇心を持たず、扱いやすい存在として生きることを強要されるゾンビ達。それは、この現実世界をなんとなく生きている多数の人々の戯画化であることは間違いない。何にも逆らわずただ与えられた物事だけをこなしていく。それで、自分だけの命を生きてるなんて言えるだろうか。ルナと優等生は、アヤ(岡田あかり)、モネ(泉紗香)、アリサ(勘田成葉)の3人が会話の収録や、ダンスをするところを見学する。3人のダンスを見、音楽を聴いて、ルナは気が付く。これは自分が見ていた動画ではないかと。その動画にまつわる様々な書き込みの中には、ゾンビの世界から帰還したという物もあったことを思い出す。

 ルナはそのかつて見た書き込みを参考に、元いた世界に戻ることができる。そして、進路のことをちゃんと考えると先生に伝える。人間として、自分の進む道を自分で考えて進もうとする。彼女の前向きな心の変化が希望となっている。しかし、ルナは訓練校で、自ら何かを考えて行動したわけではないことが気になった。教師に立ち向かうという行動は取らない。それは力の弱い学生として当然のことかもしれないが、物語世界の中でくらいは、大人に盾突いてみてもよいのに、とも感じた。もしそうなれば、自分より強い立場の者に立ち向かい、打ち倒すことで得られるような高揚感が生まれただろう。しかし、最初に書いたように、自分と社会のつながりの中で生きている学生達は、何かと敵対することを望まないのかもしれない。これはどちらがいいとかいう話ではない。自分の望む行動のための方法が、筆者の若かりし頃とは違ってきているということだ。

 今回の公演は映像であり、動画を見慣れているであろう学生達による表現を観ることができて興味深かった。ただ、筆者が昨年の星稜高校演劇部の上演『またこの空の中で』を観ているためか、舞台上ならばこうなるのではないだろうか、と想像することもできた。そして、昨年の上演作品との類似点が感じられた。『またこの空の中で』は、姉妹が不思議な世界をグライダーで巡る物語だった。姉妹は旅の中で、それぞれが心に抱えていたわだかまりを解きほぐしていく。彼らが取り組みたい大きなテーマとして、非現実の世界から現実を捉え直してみる、ということがあるのだろう。普段の生活ではできない大胆なことも、いつもと違う場所でならできたりする。いつもなら考えないことも考えるし、いつもなら言えない台詞も言える。映像も演劇も、そのためのツールに使えばいい。フィクションに編み込まれた本音を見せてもらえることを、今後も期待している。


(以下は更新前の文章です)


 「社会では感情を殺さなければ生きていけない」とか「マウントを取られたら冷静に取り返す」とか「高校生らしく、元気でかわいくてバカでいないと」とか、そういった言葉が学生の口から出るのを聞いて、今の学生はなんて大変なのだろうと感じた。星稜高校演劇部+星の劇団『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』(演出:近吉鈴蘭、脚本・プロデュース:池端明日美)は若い世代の目に映る社会問題を示し、それらへ彼らなりに対峙する姿を描いた作品だった。コロナ禍において大人数での舞台公演は困難であるため、この作品は映像として制作され、YouTubeで公開された。

 ゾンビウイルスによって、国民が「人間」「半ナマゾンビ」「完熟ゾンビ」に分かれてしまった日本。まだ意志を持っている半ナマゾンビ達は、エリア50~55に暮らしていた。そのエリア55にある星稜高校が舞台のアニメ『ゾンビ・ハイスクール・ダイアリーズ』。アヤ、モネ、アリサの3人の半ナマゾンビが、たわいもない会話をしているこの動画を、イヤホンで聴きながら歩く女子高生、ルナ(松本梨留)。彼女は進路希望の用紙を提出していないため、先生(山岸光)に呼び出されていた。物理講義室に出向くも、先生はいない。スマホを取り出し、動画を見ながらルナは眠ってしまう。

 叫び声で目を覚ますルナ。準備室に先生がいたのだが、彼は、普段の温和な姿とは全く異なる威圧的な態度で、ルナを怒鳴りつける。逃げだそうとしたルナが見たのは、ゾンビのように顔や体のただれた生徒達。進路が決まっていないルナに対して担任は「それをゾンビって言うんだよ」と告げる。気付くと自分の体も、ゾンビのようになっていた。先生に命令された優等生(直江美怜)と共にルナは、訓練を受けることになる。そこは星稜高校ではなく、ゾンビ職業訓練校という場所だった。まずはネコ(大石涼々香)の下で「運び屋」の仕事。段ボールを運んでは落とされ、運んでは落とされが繰り返される。

 次の部屋では、ピエロ(杉俣天乃)が場を仕切っている。ここでは、テレビに映る女王(黒瀬香)とメイド(北﨑千琴)により、「マウントを取ってきた相手に対して冷静にマウントを取り返す」お題が訓練生達に出されていた。良回答をしたルナは女王にほめられ喜ぶ。しかしピエロはそれを面白く思わないのか、ルナに「人間に戻りたくないの?」と問う。そしてピエロがルナを連れていったのは、先ほどの段ボールの部屋。そこでは吟遊詩人(中野優羽)とギター弾き(谷野美怜)が、勝手に段ボール箱を開け、部屋に飾り付けをしていた。彼らは好奇心を抑えることができないのだ。しかし、勝手な行動はネコと先生に見つかってしまう。ピエロは罰として右の目玉をくり抜かれ、吟遊詩人とギター弾きは細い棒で刺されてしまう。

 ルナと優等生は次の部屋で、3人の女子訓練生達が会話の収録や、ダンスをするところを見学する。アヤ(岡田あかり)、モネ(泉紗香)、アリサ(勘田成葉)の3人のダンスを見、音楽を聴いて、ルナは気が付く。これは自分が見ていた動画ではないかと。その動画にまつわる様々な書き込みの中には、ゾンビの世界から帰還したという物もあったことを思い出す。

 感情を持たず、好奇心を持たず、扱いやすい存在として生きることを強要されるゾンビ達。それは、この現実世界をなんとなく生きている多数の人々の戯画化であることは間違いない。何にも逆らわずただ与えられた物事だけをこなしていく。それで、自分だけの命を生きてるなんて言えるだろうか。その様子を、動いているが生きていないゾンビに準えて、問題提起が為されていた。

 ルナはかつて見た書き込みを参考に、元いた世界に戻ることができる。そして、進路のことをちゃんと考えると先生に伝える。人間として、自分の進む道を自分で考えて進もうとする。彼女の前向きな心の変化が、問題提起に対しての希望となっている。しかし、ルナは訓練校で、自ら何かを考えて行動したわけではないことが気になった。教師に立ち向かうという行動は取らない。それは力の弱い学生として当然のことかもしれないが、物語世界の中でくらいは、大人に盾突いてみてもよいのに、とも感じた。

 今回の公演は映像であり、動画を見慣れているであろう学生達による表現を観ることができて興味深かった。ただ、筆者が昨年の星稜高校演劇部の上演『またこの空の中で』を観ているためか、舞台上ならばこうなるのではないだろうか、と想像することもできた。そして、昨年の上演作品との類似点が感じられた。『またこの空の中で』は、姉妹が不思議な世界をグライダーで巡る物語だった。彼らが取り組みたい大きなテーマとして、非現実の世界から現実を捉え直してみる、ということがあるのだろう。映像も、舞台も、今いる場所をしばし離れることのできるツールだ。そのツールをこれからも有意義に使って、自分達ならではの新しい視点を提示してほしい。