この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
中央に一つの四角いテーブルと二つのイスというシンプルな舞台装置。一方、プロジェクターで投影される背景には、今回作・演出を担当した映像作家荒川ヒロキならではの仕掛けがある。映像の中で周りから手が伸びてきて背景を転換し、マンションの一室になったり出版社のオフィスになったりする遊び心は楽しい。ときたま映し出される海は美しい。
わがままな女(雑誌編集者:カマタユメ)とそのわがままさ故にその女を愛する男(フリーライター:イツワユウスケ)。ユメの編集する雑誌にユウスケが執筆することをきっかけに出会い、恋に落ち、一緒に暮らし始める。ユウスケが突然の病気で亡くなる。ユメは悲しみ、ユウスケと過ごした時間を省み、彼への新たな思いに気づく。そして、ユメの前にユウスケのイメージと重なる新たな男が現れる。と、中心を貫くストーリーを書いてしまえばそうなる。この男女に、他の二人(男と女)が絡む。
おしゃれでポップな芝居であった。初めと終わりに登場人物4人が背景の映像に映される。海辺で撮られたと思われる映像は美しい。ただ、芝居の中身との関連はわからない。ユウスケの「死」という重い現実も、生身の人間の死ではなく書き割りに描かれた死という印象を受けるが、それは演出家の意図したものなのだろうか。
芝居のテーマというのがもしあるとすれば、男女の心の揺れ・すれ違いということか。男の死をきっかけにして女の心にどのような変化が生じたかを描き、芝居がだんだんと核心に近づいていく醍醐味はあった。
ただ、いまひとつ舞台からこちらの胸に届くものがない。
イツワユウスケだけ、台詞と共に自分のなかに沸き起こる感情も声にする。たしかに声のトーンを変えているので、相手に話しかけているのか、そうではなくて彼の心の中の声なのかが不明瞭で混乱するということはなかった。けれども最後まで違和感があった。なによりもユウスケの台詞やしぐさから想像を膨らます余地が少ない。説明のしすぎなのだ。観ている側は舞台から与えられるパッケージになった情報をそのまま消費するしかない。そのため、登場人物と心情において共振することができない。この芝居で表現されるものは、パッケージを丸ごと好み受け入れる観客には届くだろうが、そこからズレる観客にはほとんど届かないのではないか。
芝居は誰に向かって表現しようとする営みか、戯曲や演出がどんな観客を想定してつくられているのか、そしてその想定からズレた観客にどう対するのか――その人たちにもなんとか何かを届けようとするのか、あるいは、残念ながらそうした観客は他の芝居を見てください、とするか――そんなことを考えさせる芝居であった。