七、原発立地にあたって、住民運動の果たした役割
 ところで、日本の住民運動は、1970年代から25カ所もの原発の運転を止めさせて1基も稼働させないでいます。たとえば、中国電力上関原発反対の祝島の住民運動は、実に29年もの間原発から瀬戸内海の海を守っているだけでなく、原発に依存しないために再生可能エネルギーの開発に取り組んでいます。つまり、「たたかえば、原発は必ず止められる。」ここに確信を持つことができます。
 世界でも福島原発事故を教訓にしたドイツ、イタリヤ、スイスなどの国は、原発からの撤退を国民の合意で決めました。その上、日本でも、原子力に依存しないでこの夏を乗りきることができました。最近の世論調査でも「原発からじょじょに撤退していく」が54%、「直ちに原発を止めるが11%」と圧倒的多数が原発からの撤退を望んでいます。また、消費税に道を開く復興税の創設には54%が反対しています。
 今回の九電の「やらせメール」事件に見られるように、平気で嘘をつき、事故を隠蔽するという許すことのできない体質を持っています。この中でどのような運動を行うのか。
 「原発からの転換運動は、人間のための地域のための、より人間のための政治と経済に向かう運動である」(鎌田慧)そうです。脱原発とは、単なる反対運動ではなく、過疎、少子高齢化、限界集落化に陥っている地域の再生運動でなければならないのです。
 そしてこの運動は、「子どもの将来がかかっているために、字を書ける子どもたちと共に進む運動」でなければならないと考えます。
八、再生可能エネルギーの現実性 
「このままでは福島の二の舞になる」という危機感に突き動かされ、脱原発を主張すると共に、代替エネルギーとして、再生可能なエネルギーを最大限活用していくことが求められます。環境省の試算でも、再生可能なエネルギーの物理的可能性は、原発の40倍、実に12億キロワットあると言われています。「太陽光発電で年間3000兆KW/hの電力を供給しうる」「2006年の世界の総電力供給量は19兆W/hであるから、太陽光発電でその158倍の電力を供給できることになる」(大島堅一)といいます。
 再生可能なエネルギーの特徴をまとめてみましょう。
第一に、日々更新されるエネルギーで枯渇しません。
第二に、それは地域的特性を持っていると言うことです。
第三に、最初の設備投資は必要ですが、その後の運転費用、保守費用が極めて少なくてすむと言うことです
第四に、再生可能なエネルギーは、環境への負荷が少ないと言うことです。
第五にそれは廃棄物をほとんど発生させず、環境に優しいエネルギーです。
第六に、設備が小規模で、分散型であると言うことです。
 これらの特徴から再生可能なエネルギーは環境保全型社会の基盤になるものであり、日本のエネルギー自給率(現在は4%)を高めるために、その普及を爆発的に高めることを急ぐことが求められます。
 ところが、日本では再生可能エネルギーの普及はほとんど進んではいません。川崎町でも平成20年2月に「産炭地から新エネルギーモデル町を、新エネルギーで21世紀の街づくり」という計画を発表しています。そこには6つの「プロジェクト」(バイオマス、太陽、水力、エコスクール、クリーンエネルギー車、新エネルギー体験)が列挙されていますが、その実現はどのように行われたのかの検証が必要ですが、机上のものに終わったようです。
 再生可能なエネルギーの普及が進まないのには、二つの障害があるからです。
第一に初期設備投資が高い上に発電した電気の単位あたりの価格が、まだ化石燃料に比較して高いと言うことです。しかし、技術革新が進み、利用量が拡大すれば価格は低下して、原子力より安い電気を生産できるようになるでしょう。
第二に、再生可能なエネルギーの送電に関わる障害です。つまり、日本では発電と送電を分離した抜本的体系が整備されていないと言うことです。
 2011年7月23日国会で太陽光、風力などで起こした電気の固定価格での買い取りを義務付けた再生エネルギー法案が、衆議院で全会一致で可決されました。したがって、再生可能エネルギーの割合が爆発的には増えることが現実的な課題になってきたのです。しかし、再生可能なエネルギーは全エネルギーの1,6%を占めるにすぎないのです。(2006年段階)
 福島の事故の教訓から学び地球温暖化を止めさせるには、再生可能なエネルギーこそが選択の道であると言えないでしょうか。
 この川崎でも、中元寺側、安宅川での中・小の水力発電、風力発電、間伐材等を利用したバイオマス発電、住宅リフォーム補助と太陽光発電、太陽熱発電などが考えられます。これは、併せて、地元の地場産業に雇用と仕事を保障する課題でもあります。
 「国家財政からの資金投入も含めてトータルに考えれば,原子力は最も高価なエネルギー源である。原子力発電をエネルギー政策の根幹に据える経済的合理性はない」(大島堅一著「再生可能エネルギーの政治経済学」)
 おわりに
 私達は、、原発の危険性をこれ以上拡散させないために、一刻の躊躇、迷いが取り返しのつかないことを引き起こすことを危惧してしています。ところが9月2日に発足した野田佳彦政権は、原発の再稼働をすすめる発言をしているのです。これに対して、大江健三郎、落合恵子、鎌田慧、宇都宮健児の各氏は次のような声明を発表されています。
 生命は「果たして経済活動は生命の危機より優先されるべきか」と指摘し、「核の脅威からいのちや国土、人類の公共財産である自然を守るという理念を明確に示す」ことを求めています。落合氏は「野田首相の発言に二つの疑問を持った。一つは現在進行形で被ばくしていることへの答えがないこと。もう一つは「核のゴミ」と呼ばれる使用済み核燃料の処理をどうするかの答えがない」と、話されました。
 大江氏は、ヨーロッパでは、「福島原発事故について、広島、長崎に続く放射能被ばくだと受けとめられている」「敗戦を教訓に新しい憲法ができたように、原発を廃炉にする国民的な決意をしなければならない」
 宇都宮健児氏は原発は人災だと強調して「原発現場で働く労働者が下請け・孫請け以下の非正規雇用で働かされ、ピンハネもひどい。非人間的な労度でしか原発は支えられないことを考えると廃炉しかない」と述べられました。続けた、「脱原発の運動は政治的、イデオロギー的立場を越えて国民全体、市民全体がつながっていけるような発展」が必要だといわれました。
 ところが、北電の泊原発のプルサーマル発電の再稼働に対して、北海道高橋知事は、承認すると言っています。高橋知事が、北電の役員から多額の政治献金をもらっていても、プルサーマル説明会が北電の指示で、過半数が賛成するように仕組んでいることが分かったとしても、あえて、再稼働を許可しようとする知事をみれば、原発村の力が以下に強いかを事実が示していることになります。
 また、野田義彦首相は9月22日国連本部で開かれた原子力安全ハイレベル開会式の演説で、「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」と述べました。福島原発事故から6ヶ月、事故収束のめどさえ立たない中で原子力の推進を継続を表明したのでした。23日の国連総会演説でも「原子力安全の水準を高めるための国際社会の様々な取り組みに貢献する」と言明しました。また、来年の夏をめどに新戦略を発表する事を表明しましたが、その中には「原子力」という言葉はなかったけれど、来年夏までに停止中原発の再稼働することは間違いありません。原発に野田首相も取り込まれているのです。
 しかし、「人類と核」は共存できないのです。つまり、脱原発は、思想、信条、、立場の違いを超えてすすめられるもので「神を信じるもの」「神を信じないもの」も、共同で取り組む課題だと思います。わたしたちは、脱原発のためにこの川崎の地で運動を進めるために「脱原発と再生可能なエネルギー考える川崎の会」を立ち上げることを呼びかけます。


2011年9月27日

産廃問題に取り組む中で、原発に対してどのような運動を起こしていくのかという観点で、「「脱原発、再生可能エネルギーを考える川崎の会」を立ち上げたいと考え、呼びかけ文の素案をやっと仕上げて、いるところです。

呼びかけ文は以下のようになっています。

四、日本における原発の歴史 
 ここで、なぜこのように54基の原発が日本の海浜に林立するようになったか、その歴史と振り返ってみます。
・1953年 アイゼンハワーアメリカ大統領が国連総会で〈原子力の平和利用〉を演説する。
・日本で、原子力に目をつけたのが読売新聞社主、正力松太郎氏でした。その意を受けた、若き中曽根康弘衆議院議員らがアメリカの原子力事情を視察して、昭和29年国会に修正案を出し、原子力研究に2億6000万円の予算をつける。
・1955年日米原子力協定締結。6月21日調印、発効。濃縮ウラン6㌔具グラムを供与を内容とするものでした。
・昭和30年に原子力基本法が制定され、S31年初代原子力委員長に正力松太郎氏が就任しました。
・昭和31年アメリカと日米原子力協定を結びました。その内容は、原子炉の設計、管理、運営はアメリカが行う。燃料である濃縮ウラン235をアメリカから買い付けるというものでした。はじめは濃縮ウランの100%、今日でも73%をアメリカに依存しているのです。
・日本で原発が初めて稼働したのは1966年の東海発電所です。
・1968年(昭和43年)日米原子力協定改定。
・1970年軽水炉型原子力発電は、福井県に日本原子力発電の敦賀原発1号機と関西電力御浜発電所1号機が商業運転を始めてからでした。
 原発が54基に増発したのは日本のエネルギー政策の推移と密接に関わっています。日本は、戦後のエネルギー源を石炭に頼っていました。しかし石炭合理化、エネルギー革命の名のもと、国内の炭鉱を閉山させ、水より安い石油にエネルギー源を切り替えていきました。その結果、アメリカ依存を取り続けたため、エネルギーの自給率は4%、食糧自給率は41%と、まともな「独立国」とは言えない状態にまで陥っています。
 アメリカのブッシュ前大統領ですら次のように述べています。
「食糧を自給できない国を想像できるか。そんな国は、国際的な圧力と危険にさらされている国だ。食糧自給は国家安全保障の問題であり、アメリカ国民の健康を守るために輸入食料に頼らなくてよいのは、は何とありがたいことか。」
   (米農業クラブ連盟でのブッシュ前大統領の演説、200年,7月)   エネルギーと食料のどちらも自給できない国、それが日本なのです。そのことを重大に考えていない。「無ければ、外国から安く輸入すればいい」と安易に考えている国なのです。このことを放置して言い訳がありません。世界的には何億もの人々が飢餓の状況に置かれているのに、減反で米の生産を止めさせ、米の自由化にすすめてきました。その行き着く先がTTP(環太平洋連携協定)への加入問題です。日本の関税は現在12%ですが、それを原則無関税にするのです。日本農業は自給率41%から13%へ激減すると試算されています。それは、医療、金融等24の部門で検討されています。
・1973年のオイルショックを受けて中東の石油に依存していたエネルギーの代替を国と財界は原発に求めたのでした。以後国策としてエネルギー政策の基軸に原子力開発が置かれるようになりました。
・田中角栄は、1974年電源3法(電源開発促進法、電源開発促進対策特別法、発電用施設周辺地域整備法)を制定し過疎地に交付金を400-450億円支払い、原発の立地をすすめました。原発ができると固定資産税が毎年20-22億円入ってきます。ところが9年たつと、減価償却で固定資産税も、交付金も入ってこなくなります。財政的に逼迫した自治体は、交付金ほしさに次々に原発を立地させてきたのでした。福島第一原発のある〈東浜通り〉は、かってって「福島のチベット」と呼ばれる、過疎地で、農業も林業、水産業も衰退して、地方自治体は財政が確保されないために苦労を重ねていたところでした。原発は、このような地域にとって唯一のまとまった、しかも豊富な財源になる「誘致企業」だったのです。その上、雇用も確保され、農民は、出稼ぎにも行かなくて済むようになりました。福島第一に4基の原発があることは、そのことの典型的な例といえるでしょう。
・原発は、一基つくるのに5000億円かかります。この財源は、10の電力会社の地域独占と共に、「総括原価方式」によって、電気料金に上乗せさせられて国民の負担になっています。「総括原価方式」とは、発電、送電、電力販売、燃料、運転費用、従業員の給与、営業所経費等の原価に4.4%の利潤を見込んで決める方式です。例えば事故が起きた費用も原価に算入されるために、電力会社は必ず利潤をえることができるのです。
・この巨大な利権に、電力会社、原子力メーカー、鉄鋼、大手ゼネコン、銀行などの大企業、政治家、特権官僚、御用学者、一部メディアが巣くって、「原子力村」と呼ばれる利益集団を形成しています。
五、福島原発事故の対する国と東電の対応
・しかし、今回の事故で生じた巨額な損害賠償を風評被害も含めて東電は1200億円ですまそうとしています。原子力災害の賠償責任は、無過失、無限の賠償責任を定めた「原子力損害賠償法」に基づきます。しかし、今回の事故を人災ではなく「天災、社会動乱ととらえ」、その被害を国に肩代わりしてもらおうと考えているのです。
・国も、東電も福島原発被害を過小評価し、被害を限定しようとしているのは、被害総額が莫大になり、国家財政と会社経営を圧迫することになることを危惧しているからです。しかし今回の事故は、天災でも、社会動乱でもありません。国と東電の安全軽視の姿勢と何よりも安定した地盤の上につくられた原発は一基もないもないにもかかわらず、札束で住民を買収して、過疎地で、高齢化し、地場産業と農業、漁業が衰退した地域を選んで、安全審査をクリアーさせ、原発を持ち込んだ「人災」といえます。今回の原発事故では、国策としてすすめてきた原子力エネルギーを選択した国と、安全性を軽視してきた東電の責任は免れません。原発の全被害、風評被害を含めた損害を国と東電に求めることは当然の措置だと考えます。ところが、福島原発が収束しないのに、政府は原発の再稼働をめざしています。北海道では泊原発の再稼働を高橋知事は容認しようとしています。

すでに述べてきたように、川崎町大ヶ原産廃処分場問題で、住民は5つの裁判をたたかいました。本当に偶然が作用したのか、住民の訴えに裁判官が心を動かしたのか、裁判官の産業廃棄物処分場についての認識の飛躍があったことは間違いありません。ただ裁判ではなにも解決はしません。法的には産業廃棄物処分場ができないことを明らかにしたという点は、画期的とは思いますが、産業廃棄物処分場設置の許可は有効だと県廃棄物対策課は言っています。この論理を打ち破り、県か、町が予定地を購入するまで運動は続けなければなりません。町長が4月の選挙で替わり、私達の関係はよくありません。また、産業廃棄物処分場計画を持ち込んできた町議会議長が謎の自殺をするという事件も起きています。

 複雑に絡み合った中で、解決の道を探求する仕事が私達に残っています。16年間たたかった中から亡くなられた方、病気の方も生まれています。力が少し弱まった中で、体制を整え、勝利の道を歩んでいきたいと思います。

 次回から、今までのエピソードなどを書いていきたいと思います。それでは。長い判決につき合っていただきありがとうございました。