日常の現実 ~687日目~
昨日、父に会ってきました。
告知の翌日。
どんな顔で会えばいいんだろう?
何を話せばいいんだろう?
そんな思いを胸に秘めつつ行ってきました。
とりあえず、見た目の変化は特になし。
むしろ、今まで殺伐とした表情だったのが、なんだか穏やかな顔でした。
あれれ?って感じ。
「もうそろそろかな、って思ってた」とか言ってたくらい。
この先の話も、少ししましたが、相変わらず自分が元気でいる想定だった。
もしかして、現実を理解できていないのでは?と思うくらいでした。
今までなら、あまりの乖離に完全に決裂してましたが、
「そうだね。でも、これは難しいんじゃないかな?」
なんて、表現も柔らかくなった自分がいた。
まるで昔に戻ったかのような、穏やかな時間。
掛け違えたボタンが直ったのかもしれない。
でも、このボタンはいずれ外れて無くなる・・・。
そんな気持ちです。
人生に答えなんてない ~686日目~
昨日の夕方、医者も同席して、父に余命の告知を致しました。
僕が行くと動揺するかもしれないということで、同席しませんでした。
母によると、意外と冷静だったそうです。
そして、「教えてくれてありがとう。」と、言ったそうです。
僕が思っていたよりも、父は強かったのかもしれないし、本人に実感がないだけかもしれません。
いずれにせよ、残された時間を認識したのは間違いありません。
時が過ぎてゆき、告知の選択が正しかったのかどうか、僕はきっと悩むときがくると思います。
隠しておいたほうが良かったかもって・・・。
問題ばかり残した父でしたが、最後に大きな問題を残してくれました。
※告知後の話
本人も開きなおったのか、
父 「退院したら、酒もタバコもいいですかね?」
医者 「タバコ吸うのも仕方ないですけど、息苦しくなりますよ。お酒もタバコも程々に。」
父 「もう糖尿病のインシュリン注射も止めていいですか?」
医者 「臓器の問題があるので、止めないほうがいいです・・・。」
と、相変わらずだったようです。
あと、本人によると、入院する前日に、みやびが心配そうな顔で見つめてくれたそうです。
「あいつ、もしかして分かってたのかもしれないな。」だって・・・。
今日は病院へ行ってきます。
元気な内に、いろいろと話しておかないと。
死ぬ瞬間 ~685日目~
人は自らの死について、5つの受容のプロセスがあると、エリザベス・キューブラー・ロスは
1969年に、著書『死ぬ瞬間』で発表している。
第1段階 「否認」
患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。
「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の
形をとる場合もある。
第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」
あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように
取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
第4段階 「抑うつ」
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われ何もできなく
なる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
第5段階 「受容」
部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。
最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。
受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。
希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。
「デカセクシス(Decathexis)」とロスが呼んだ状態である。この状態で最期の言葉を残す
ことが多い。
※ただし、全ての患者が、このような経過をたどるわけではないとも書いています。
今日、本人に告知します。
僕は神も宗教も信じませんが、やはり心の底では信じたくなります。
昔の人たちが宗教にすがった(今もそうだが)気持ちも、今はうっすらと理解できます。
誰もが必ず辿る道ではありますが、受け入れるのには、心が折れかかってしまう・・・。