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昭和おやじのセピア色備忘録

昭和34年生まれ、北九州育ちのオヤジが過去の事、現在の事を赴くままに書き散らす散文ブログ。

大人の社会でも子どもの社会でも、「社会」という名前がつけば、そこにはヒエラルキーが生まれます。

当時、男子の子ども社会で上位に立つには一定の基準がありました。 優先順位的に見ると以下の様だったと記憶しています。


①ケンカが強いこと。

②スポーツができること。

③面白い事ができること。

④家が裕福なこと。

⑤勉強ができること。


①の「ケンカが強いこと」とは、単純に肉体的にケンカが強い事よりも、寧ろ、精神的にケンカが強い事を意味していたと思います。つまり、平たく言えば、「気が強い」とか「動じない事」を意味します。 当時、子どものケンカでは、いきなり手を出すことはありませんでした。まずは言葉で相手を威嚇し、出来るだけ実戦に持ち込まない様にしていた様に記憶しています。だから、滅多に実戦のケンカを目の当たりにしたり、巻き込まれる事はありませんでした。つまり、相手がどんな言葉で威嚇して来ようが、それに動じない精神力を持っている子どもは、たとえ実戦に及ばなくても皆から一目置かれました。


②の「スポーツができること」は、現在でも重要な要素でしょう。しかし、当時はスポーツができる事は、今以上に重要な要素でした。①のケンカが強い子は大抵スポーツも出来るので、それらの子は、ヒエラルキーの上位のポジションがほぼ約束されていました。


③「面白い事ができること」については、周りの子どもを笑わせるというよりも、特殊な能力を持った子どものことを意味します。 当時のクラスにも、スポーツもダメ、勉強もダメ、でも…ある事については特別な能力を持っている子がいました。 そういう子は、なぜか皆に面白がられており、皆の中に溶け込んでいました。(世の中には、本当に凄い能力を持った子どもがおり、別機会でご紹介します)。


④の家が裕福なことは、ヒエラルキー上位の条件というよりは、特待待遇という意味合いでした。 実は、私の住んでいた地区には、山の手に大手鉄鋼会社の上級管理職用の社宅があり、立派な庭付きの瀟洒な一軒家が数棟建っておりました。我々貧乏人の子どもにとっては、別世界の環境でした(とは言え、前ブログに書いた様に、自分は貧乏だとは思っていませんでしたが…)。ここに住む子ども達は、親の転勤で転校してくるので、大抵2〜3年で転校して去っていきましたが、育った環境が全く我々とは異なり、何となく特別扱いされていました。

彼らとの付き合いについては、非常に面白い思い出が多く、また別機会でご紹介したいと思います。


⑤当時、「勉強ができる事」は、子どもにとって何の力(価値)もありませんでした。今の様に有名私立の中学受験もなく、大学に行くことも稀だったので、子どもも、親も、元気で働き物の大人に成長すればそれで良し❗️の時代だったと記憶しています。 もちろん、勉強ができる事は悪いことではありませんが、当時の子どもは遊ぶ事に忙しく、少なくとも私は、勉強は中学か高校になってから真剣にする物だと思っていました。


当時、①と②の能力を持っている男子は、大抵

クラスに3〜4人はいました。 そして、それらの子はいわゆる「いじめっ子」でもあり、それ以外の子は一様にいじめられっ子でした。 実はこの「一様にいじめられっ子」という点が重要で、特定の一人をいじめるという事は皆無だったと記憶しています。つまり、人数的にはいじめっ子が少数派で、いじめられっ子が多数派であり、いじめられっ子同士も団結していた記憶があります。 因みに、私は多数派のいじめられっ子でした。


次回は、「心優しきいじめっ子」と題して、当時の記憶を紐解きます。