オニは外にも内にも♪ | ゆうなっち研究所!!

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世の中の真実について考えるのです

つまはじきみたいな目に遭わされることが長ずれば、
別に優等生でなくても、スネて距離をとるような態度に出ざるを得ないし、
そこをまたつけこまれてマンガやドラマの悪役にされてしまう

ところで、ゲルマン民族の習慣とされているけど、日本の武士階級も採用してて、
主家がそうすれば家臣団もそうするし、しないと謀叛になるから、
いつまでたっても王族の領土は最大を維持できる

そんなふうに、遺産相続では人数割りが何故か平等ということになっていて、
代々に渡って頭割りしていくうち、その氏族の勢力は必ず衰えてゆく

外向けの戦争より内向けの戦争のほうが重要であって

政府が提唱する平等だとかいうのは、何よりも政府が損しないようにできていて、
国民のチカラを削ぐことが第一に考えられている

『「国」と「公」は必ずしも一致しない」』(新戦争論1 P404)

とあるように、従って、「個」と国家によって定義される「個」も一致しない

ところが、ある、いわゆる左派と思しき方のブログで、
「個と公」論は個を公が圧殺する理論だ、みたいなことが書いてあったので、
私は先入観をもってしまい、ちょっと読み違えて、「公共の福祉論」とパラレルに考えてしまっていた

「個と公論」の「個」とは「私」が「公」を獲得するとき、
「私」によってキャラ付けされつつも「個」へと昇華したものであって
憲法とか民法といった国法にて定義される「個」概念とは必ずしも完全一致しない

「個」と「個」の距離感は直接の「公」ではなく「道義」で調整されることになるし、
いわゆる人権制約原理とパラレルとなるものではなく
時にそれらの体系を吹き飛ばすことさえある

ここはうちら入門者は注意すべきかと思われます

なぜに「公」と「国家」は一致しないのか?

思うにこれは、「国家」は限られた資源と時間の中で運営される会社ゆえに、
効率性も考えなければならず、
秩序維持のために、ある特定の勢力に主導される場合も多く、
また、一般には法律の範囲内で運営されるという制限が課されている、
からでもあるでせう

ところで、「公」とは人の「希望」を保守するための機制であると
述べてみましたが、

人間の希望とは「幸福」であるから、
つまりは幸福達成のために公なる規範機制が存在するのであって

人は幸福というものを夢見ているものの、この世に生きるのが初めてであるために、
色々と事故が起きがち・・

そこで、「公」という、先人たちが残してくれた規範に含まれるメッセージを読み解いて、
対話をしながら、現世における幸福の具体的実現プランを日々相談することで
個によって共有される社会における健全な最大幸福を実現しようとする
やがてそこから得られたものを子孫たちに伝え、
その幸福を見守ろうとする、時を超えて

「道義」は「個」が対外的な共同社会に作用するときに課される
公共規範であるとすれば

「道徳」は個それ自身に対する規律として、その手段、経過、結果を実現することを
不作為または作為として課される、いわば1人の個人の内面のための規範である

「道義」とは公の要請を受けて、時には体制の転覆までも
「個」に対して要求することもある種反逆のための、クリエイティブな概念でありますが

この「道義」の基本単位とも言える「道徳」を、行政府が運営する学校で教えることは
道徳の意義を失わせることにはならないか?

思うに、確かに、道徳を学校の保護下におくことでその意義は弱められることになるだろう、
しかし学校が健全に運営され、生徒や親が高い意識を持って取り組めば
それは最小限度に留めることができるのではなかろうか

また、そうやって道徳を保護することで、わけのわからない半端な言論勢力に
道徳の内実が歪められることを防ぐこともできるのではかろうか
どっちがマシか?という問題にはなるけれど

ま、どんな科目も習った後の自主勉強が大事ですけどね

で、

大義とはその「道徳」「道義」の最大級ということになりますが、

「大義なきイラク戦争」ということは、では、
大義があれば、または道義があればイラク戦争は認められるのか?

イラク戦争は侵略戦争だから大義があっても認められませんが、

単にそれだけの問題なら、
「イラク戦争は侵略戦争だから許されない」でさらっと終了するはずで、
「イラク戦争には大義がない!」(同 P54他)と、わざわざ述べられることはないはず

・イラク戦争は日本が攻められていないのに討って出た戦争であること
・侵略戦争は絶対に認められないこと、
・外国軍隊の侵略に対する自衛戦争に対しては大義および道義は当然に備わること、
からすれば、

大義、道義が必要、とされるのは、あくまでも自衛のためではあるが、
現実の侵攻を受けていないにも関わらず、海外へ討って出る場合と考えられます

「道義」のレベルで容認される対外自衛戦争を考えるために
「道義上許されない対外自衛戦争」を考えるならば、

公がむしろ保全され、國體が回復される場合、
例えば、友好国軍隊が自国を支配する敵国(宗主国)政府軍を打ち払うとき等が
考えられましょう
このとき、宗主国に付き従って、その自衛のために国外に討って出てはならない

ゆえに「道義のレベルで容認される自衛戦争」とは

侵略者である宗主国に臣従したものの、それを倒すための寝返り戦争であり

宗主国に謀叛を起こすため、友好国に与力、後詰するために討って出る
または、
友好国が不当な侵略を受けた場合に討って出て、
敵国を撃滅し、友好国の主権を回復することで連帯して自衛に当たる場合等
が考えられましょう

ということは、戦争という手段が是認、要請されるほどの「大義」

大義のレベルが必要な対外自衛戦争を考えるために、

道義的自衛戦争のケースとの対比により考えると、

その国から直接侵攻を受けておらず、また、侵攻の気配もない、
むしろ友好的である、にも関わらず、自衛の目的のために討って出る場合

ある国が、とりあえず友好国なのかもしれない、
それが世界秩序を破壊し、民族の尊厳と自決を奪うことが明らかな侵略戦争を行うことが
常態化し、それを放置しておくと日本国の國體も破壊されることが明白である場合、
その国に造反し、その軍隊を攻撃、撃滅し、侵略を受けている国の主権を回復し、
世界秩序を回復するために討って出る

というような場合でしょうか・・

ちょっと疲れてきたので、ひとまずこれくらいにしておこう