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世の中の真実について考えるのです

漫画家志望(注:脳内)などと言うほどですから、絵には自信があったはずで、
さらさらっと実験器具のイラストを書いてたら
それを見た男子が、お前すごいじゃないか!という趣旨のことを言う

「漫☆画太郎の絵だ!」

まん・・・・、がたろう・・・・!?

検索したところ

はうあ!!

ご理解いただきたいのは
私は決して貧困層や低学歴を嫌っているわけでもディスっているわけでもなく

貧困低学歴と称する方々が、
世の中がおかしいのは高学歴・優等生・富裕層が悪いからだ!と
そのような真理に到達なさっているのだから、既に充分賢いではないですかと

恋愛についても別に否定するわけではなく、
私としては法律婚などに頼らず、皆が自立した恋愛を謳歌し、
その延長で自由な事実婚を達成できる世の中が正しい、そのように思っているのです

けれども私は育ちが悪い上に地味でチビでもあるし、たいした才覚もなさげであり、
恋愛関係がすでに事実婚といえるような実質を持ちながら、
立証や認定が案外と難しいらしく、何の保障もない歪な現代においては
まぁささやかな草食の幸せを目指しますわと

小中高生の方々も検索で飛んで来られることがもしあれば
そういう方々に対する責任もありますし

やっぱりねえ、より重要と思われる悲惨な顛末は恥になるから語られにくく、
ヘタすれば人生を左右する事業の割に確実な情報に基づいて行動できない

オタキング事件もね、あれは芸大を舞台にしたアートであるという見方もできなくなく、
そういう方向性を持つ人々が、自らの人生というキャンパスで
人体実験の成果を披露してくださるのは決して意義のないことではない

それが人の自由とか可能性といったものの新しい枠組みを見出すことにつながる

私も「正しい保守」になれるよう努力していますけど
「保守」というのは単に伝統を維持することではなく、革新も内含した概念であるからには、
そういった挑戦を否定するものではないのです

さておき「公」とは「個」の中に内在するのか、はたまた「公」の中に「個」が内在するのか?
それはおそらく両方であって
オタキング事件のような状況なら「個」の追求という一種のアートの中にも
「公」があるとなるのであろうし
路チュー事件のような状況なら「公」の中の「個」といえるのでありましょう


その人が置かれている社会的身分、状況によってメタモルフォーゼするものであって

だとするならば、ノモス、神意というのも、ある種の「公」であると言えますが、
かといって、「公」概念がそれらに対する上位概念性を失うわけでもないと考えます

「公」がまずあって、ノモス、神意・・とカタチを変えてゆくのであってですね、

メタン、エタン、ブタン・・、
アルコール、エーテル、メタノール、プロパノール・・なんかの関係にも似ていますけれども、
死屍累々の上に見出されるものであることからすると、
有機化合物と言っても過言じゃないかもね

結局のところ「公」は「個」の堆積による凝縮・醸造物であるから、
公益に近い、つまりは多数の「個」(未来も含む)が託されている状況に置かれた場合には
より「公」が強調されねばならない


色々検索したり・・
中にはアンチも当然おられて、

「『個と公』という考え方は公によって個を圧殺するもので、
幸福追求のために必要な個の尊重という考えに反する」とするものがあるようですが、
それは違くて、「公」は「個」を温かく、時に厳しく見守ることで
個の存在を保障する存在であります

社会の中でぶつかりあう「個」を適切に方向付け、
調整・和解させるとともに、資源を公正に配分し、「個」の持つ可能性を最大限に発揮させるために
つまりは「個」を尊重するために、「公」が必要なのであります


この考えのひとつのメタモルフォーゼが「公共の福祉理念」として憲法にも表現されている
といえば、いわゆる左翼の方々には受け容れやすいのではないかなぁ・・などと


ただし、私の言ってることは全部勘違いの可能性がありますので
そこは各自各書を御参照の上御検証いただくとして

保守という考えは多義的なもので、万物は流転することをまず前提として認め、
キープ、ホールド、アップグレード、また革新といったものも含まれる、という理解なのですが、
果たしてメンテという意味の「保守」は含まれるのか?という疑問がありましたが、

「世の中が一斉にある方向に流れる時に、わしは真ん中にぐっと戻すのだ」という御発言からして
やはり含まれるという理解でよいようです