ヒント♪ | ゆうなっち研究所!!

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世の中の真実について考えるのです

託児所もネ、預けたらボコボコにされて殺されるって
どうなってるんでしょうね

法がどうこうっても、やられちゃったらシマイなんであって
裁判になったら嘘つきまくられる、口裏合わせまくって

公憤をもっていた職員による画像リークがあったそうですが
その職員も変だと思いながらも、言い出せずにいる

集団に個を埋没させて、公を減退させてしまっている

「個」と「公」の対立概念として、「私」と「集」があって・・

『私的な欲求を追求する「私人」と「個人」は違う』 (「新戦争論1」P294)
『竹内は最終的に芸術の子として戦争に行く』(同P425)

ということから、「個」人とは「私」人+「公」であることがわかります

さてここで、

『「公」「公共性」は日本の歴史の中で醸成されてきた不文律のルールである』(同P405)

とのことから

「公」とは規範である、とわかりますが

とすれば、「公共性」とは、集団内の共通認識として共有される「公」であると言えましょう

公が先か、公共が先か?
個人の歴史があっての共同体であるから、
まず個から発する公があっての公共でありましょう

しかしながら、公が規範であるとき、それは歴史的に堆積し、
醸成された、つまりは過去から導き出された類型であることになります

さすれば、P294
『「個人」は「公」のための決定権を持つのだ!』という記述と矛盾しないか?
・・という悩みがあったのです

というのは、歴史(過去)の堆積から醸成され、確立された規範にたいして、
現在の人が如何なる決定権を持つことができるのか?

しかしこのことから、

「公」というものもまた変わりゆくものである、という理が前提としてある、
ことがわかったのであります

つまりは、公もまた「保守」を内含すべきものであって

過去、現在の「公」をどう評価するか?また、あるべき未来の「公」をどう想定・提示し、
その新たな「公」をどのように構築するか?

それらを決定できる主体となりえるのが、確固たる「公」を内在した「個」人である、
ということであります

従って、「保守」なき「公」は「公」足り得ず、

『人が集団に搦め捕られて、個を失うような状態には「公」はない』(P294)
というときの
(他者の)「個」から「公」を失わせ、「私」としてしまう「集」であります

とするならば、集+保守=公(=公共としての公)

同様に、保守を内包しない公は公足りえずという時
私+公=個であることから、
むき出しの「私」があるだけということになる、これが公のようなもの、
集の芽と結びついて育ち、社会へ流れ出す時、公を消し去ることで個を失わせ、
やがて国をも押し流す危険な流れとなる

もっとも公をしっかり備えた「個」と、公が薄れて「私」に堕ちつつある
救済可能な「個」があることは注意しなければならなくて、
「私」も完全に否定されるべきではなく、適時の相当な規制を受けるのであって、
要するにそれらは常にせめぎ合っているのです

では「保守」とはなにか?というときのヒントとして

・『保守なら主体は日本に置くべきであって』(同P73)
・『保守とは本来、歴史から学ぶことであり、歴史を無視する設計主義を否定する態度のことである』
『人間の浅知恵で計画通りに社会や、国や、世界を作り変えることはできないと考えるのが保守である』
(以上同P154)
・『本物の保守は、実は臆病で欺瞞的な同調圧力で出来上がっている大きな体制を、
少数派ながらもロックな不協和音をかき鳴らして風穴を開けるものだ』
(2014.12.15 『保守とロックの近似性』 http://yoshinori-kobayashi.com/6398/)

たとえば「臆病で欺瞞的な同調圧力で出来上がっている大きな体制」
これは個から公を失わせ、私としてしまう「集」の具体例と思われますが

「集」が現れるのは保守が毀損されたときであって
例とするならば、

・歴史から学ぶことを忘れた時
・偽史を見破れず、否定できない時
・保守の主体を日本に置くことを忘れた時
・臆病で欺瞞的な同調圧力に屈する時
・不協和音をかき鳴らす少数派となることを恐れる時

このことは同時に、保守は失われやすく、常に危機に瀕しており、
保守もまた保守されなければならない、ということを示しています

尚、以上は私の独自解釈でありますから、例によって大勘違いの可能性があるので
そこは御注意いただくとして、

ちょっとまたハナシ変わるのですけれど

「神意」と「公」の関係で、神とは人間を含む世界を創造した存在であり
人間の歴史の醸成である「公」がこれに優越できるのか?
神意を公のメタモルフォーゼとしてよいのか?という
私見に対する疑問が生じていたのですけども、

「公」とは、人間の歴史が神意を取り込んで、人間のできること
として解釈したものの上に成り立っている、
神意を取り込んだ上で、人が社会生活を行うための規範として再構築され、
醸成されたものであるから、

要するに、神意とは人間が自らの「公」を構築するための導きであって
答えのためのヒントなのです
適切な「公」が定立されることによって神意が正確に読み取られることになり、
つまりこの時、神意は公のメタモルフォーゼとして正確に機能するのであり
真の意味で神意に適うのです

人間は何度天罰くらってもなかなか「公」を構築できず、
構築してもすぐに腐敗させてしまって、「私」に堕してしまうからやっぱり天罰落とされるのであって
ゆえに「公」が神意より上位におかれることはむしろ神意に適うことなのです