みなさん、ブログ記事を書くとき
スマホからアプリ使ったりして書いてますか?
それともパソコンをカタカタたたいてますか?
僕はこのブログ書くときは
ほぼアメブロのアプリを使ってるんですが、
もしかしたら皆さんご存知かもしれないですけど、
アプリには、書きかけを下書き保存できる
『アプリ記事保存』の機能があります。
でもこれ実は、
一度アプリをアンインストールしたりすると
保存記事が全部パーになっちゃうんですよ💦
(投稿済みの記事&下書き保存は大丈夫らしい👌
削除されない)
最近、僕、
アプリで記事保存してたんですけど、
50記事くらいの書きかけを
見事に全部消えてしまいまして(笑)
なので、
訪問してくださる方には大変申し訳ないですが
今後はそんな対策として
書きかけの記事を
未完成なままアプリに保存せずに
即投稿することにしました(笑)
その後記事は更新していきます😂😂💦↗️
どうかお許しください🙇💦🤣
保存記事全部消えたときの
絶望といったらこの上なくて
今年(2020年現在)一番
死にそうなくらいショックでした
さて、前置きが長くなりましたが、
とりあえず、今日も記事書いて
未完成で下にあげちゃいます
なんかゴメンょ
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【記事】
この世は、
数多くの生き物がいて、
あらゆる現象があります。
それらは科学で説明できたりできなかったり。
今も多くの研究者や科学者がこぞって日夜、
未開の領域を探ろうと奮闘しています。
そこに研究費なるお金もつぎ込まれ、
ときに国家レベルにまで至る。
私たちは、
「科学者たちが、一体何を日々研究してるのか?」
「何か自分たちには理解の到底及ばないことを
やっているのか?」
と思ってしまいます。
でも実際はそうではありません。
モノを高性能の顕微鏡で見るように、
重箱の隅をつつくように、
はたまた地図のとおり
点で示した地域に実際行ってみてみる。
体中に血を巡らせる毛細血管があるように。
そのように
研究者たちは物事を事細かく研究しているのです。
研究といっても全く未知なものではなく、
仮説を立て
(過去の経験から、
こうすればこうなるかな〜っていう
理論上の予測、推測をする)
それが現実世界で起こることを証明する。
証明できたら良し。
証明できなかったら、
擬似的な世界である仮説を設定し直す必要があるのか、
はたまた仮説を証明する過程に加不足があるのか。
検証を行い、
これらのプロセスを繰り返していくわけです。
科学の目指すところは、
現実に根ざしていること。
つまり
ある条件のもとであれば
どうあがいてもそのような結果に成るという
ことを淡々と繰り返している。(普遍性)
ちなみに、
研究には研究論文というものがある。
この論文とは、
研究の
「主旨や目的」「プロセス」「研究結果」など
をまとめたレジュメみたいなものである。
研究論文そのものの価値は
その論文が引用された数、
すなわち論文引用数を見ればわかる
といったこともある。
どうすれば引用数が多くなるのかは、
まあ、いろいろカラクリがあるけど、
端的に言えば、
その時代に合致したテーマで研究しているとか。
今だとエーアイとかの領域はホットな学問分野ですよね。
シンギュラリティとかいって機会は人間を超えることができるのか?
みたいな、
ターミネーター顔負けの話ししてるから。
だから、
正確には論文というより
その研究自体に興味が注がれ
研究者の懐疑心をくすぐる。
その結果、こぞって原典の追試が行われるわけです。
その他、
いつしかの、ST○P細胞の話とかもそうですね。
簡単に言えば、
小保方さんが発表した研究結果が
追試で証明されなかったからインチキだ!
となったわけです。
具体的な経験や細かな知識は
普遍的な法則を導き出すための材料となります。
それらが理論通りに現実世界で
そうなることを証明しようとするのです。
ただし、同時に
科学とは究極的に骨の折れる作業です。
この世にあるありとあらゆる知識は
ほぼ飽和状態といってもいいでしょう。
これ以上の未知の知識は出ないでしょう。
さらに知識というのは、
ある種断片的なところがあります。
例えて言うなら、
お城を築くときに城壁を作るのに似ています。
この例では
・知識=言語化可能なもの=意識=城壁の大岩
・感覚=言語化困難なもの=無意識=生コン※とかモルタルとか
※生コン(生コンクリート)
=セメント粉末に水などを加えたもの
というふうに定義できるかと思います。
城壁を築くとき、
岩などを積み上げていきますが
その際、
岩と岩の間に絶対に隙間ができます。
城壁全体としては成り立ちますが、
細かく見ると隙間がある状態です。
その隙間がいわゆる
「知識ではどうしても埋められない感覚の世界」
「言語化できない細かな部分」
になります。
ちなみに、
なんだかんだ科学といえども
一つのデータを取ってる時点で
一部を見ているという点で
それはある種の偶然となりますので、
偶然を排したい科学でどうしても
偶然を取り扱わないといけなくなります。
お城を築く際、
石壁のその隙間を埋めたいのなら
現実的には、
セメントを流し込むなりして
岩同士をジョイントします。
しかし、こと概念の話になると、
知識にも限界がありますので、
あとは感覚に頼らざるを得なくなります。
感覚だけでも限界まで行きたかったら
哲学なりスピ系なりを学ぶしかなくなると思います。
おそらく、
これ以上の考え方がない。
というより、最終的にはどうしても
こういう話に行き着くよな〜ってことになります。
ただし、それはあくまで
『知識』だけにとどめておくように。
体は現世にあるので、現世を生きる。
もちろん知識は、
現実世界で現象として見られる物事です。
今は、完成しきった知識という名の「木🌴」から
枝葉を伸ばすようにして付随的な概念をいっぱい出しているに過ぎません。
例えば、若者言葉。
あれは学術的な視点で見れば
「言葉の言い換え」の類に入るでしょう。
もともとあった言葉を
若者たちが略したりアレンジしたりしているのです。
to be continued....