新1000円札に登場した北里柴三郎。今その新札をマジマジと見ている。右に彼の威厳に満ちた肖像、中央には同じ「透かし」があり、左下には銀色に輝く立体肖像(見る角度によって正面向かってやや右向きから正面を経て左向きまでほぼ90度の角度で見えるのだ)が施されている。札の裏には北斎の「富嶽三十六景」。すばらしい。だがこれがあの渋沢栄一だったらなあ・・・・ と そんな問題ではありません!
北里柴三郎は、当時まだ未成熟だった日本医学を西欧のレベルに匹敵する近代医学に育て上げた人物である。
写真からすると典型的な「肥後もっこす」(熊本の言葉で 正義漢でガンコ者、分からず屋 などの意味がある) 伝記などを見ると、柴三郎の人生も概ねその通りと言っていい。そして彼は公平で飾らず、受けた恩を忘れなかった。
独留学で世界的な権威であるロベルト・コッホに師事、 徹底した科学的手法・考察を学んだ。そこで破傷風菌の発見と血清療法の確立という ノーベル賞に匹敵する実績を上げた。留学期間が終わる頃、多くの国々や機関から招へいを受けた。独ベルリン大学、コッホ研究所、仏パスツール研究所や米国など。破格待遇だったが、彼の帰国の意志は動かなかった。日本で感染症から人々を救いたいとの大望を持っていたからである。
だが帰国した彼に国は冷たかった。近代医学を受け入れる土壌が無かったからである。また母校の東京帝大も 留学中の彼との確執を生じた為に、彼を教授として迎えようとはしなかった。彼は是非とも細菌学の研究を続け、日本を感染症から救いたかったのだが、孤立無援の環境だった。
そんな時 救いの手が差し伸べられた。福沢諭吉である。諭吉は彼に研究所設立の土地・資金を無償で提供する。そのお蔭で「伝染病研究所」が設立された。ここで彼はペスト菌を発見した。人類が1500年間苦しんだペストの原因が明らかにされたのである。その後、同研究所に代わる「北里研究所」を設立し 多くの実績を重ね、優秀な人材を輩出した。全国組織「日本医師会」を作ったのも彼である。
現在、世界的レベルにある日本の医学。彼の活躍なくしては語り得ない。
生い立ちから医学志向を抱くまで
柴三郎は1853年熊本県阿蘇のふもとにある寒村で生まれた。父は庄屋だった。幼い弟を流行り病で亡くした彼は大きな衝撃を受けた。また全国でコレラが大流行した。致死率70%。江戸だけで26万人、全国で数十万人が犠牲となった。原因が分からず、治療法もない高い致死率の感染病ほど恐ろしいものはない。
それはコロナ流行の時、全世界が恐怖しあらゆる活動が制限を受けた事でも分かる。原因たるコロナウィルスは間もなく特定されたし、ワクチンも製造された。最高6.5%の致死率(高齢者は50%以上)、流行年度平均1%以下である。にもかかわらず世界の生活形態が変化を来たすほどの影響があったのだ。原因も治療法も分からなかった昔の感染症が、人類にとってどれほどの脅威を与えたかが想像できるだろう。
地元の官立熊本医学校(現熊本大学医学部)に進学した柴三郎はここで感染病原因の一端を知る事になる。国内に入って来たばかりの顕微鏡で動物の組織細胞を見た彼は驚愕した。
「生物はこんなにも緻密な仕組みを持っているのか。」
そして蘭医師マンスフェルトは彼に言った。
「伝染病は眼には見えないものの仕業である。」
顕微鏡を使って原因を探し出し、治療法ができたなら、あの弟も死なずに済んだに違いない ── 。この悔恨の情が彼を医学に突き進ませた。1874年(M7) 彼は東京医学校(現東京大学医学部)に入学、更に研鑽に励む。
独留学
1886年(M19) 独へ国費留学。ベルリン大学で細菌学の権威たるロベルト・コッホ(結核菌・コレラ菌・炭疽菌の発見・ツベルクリン反応法などでノーベル賞受賞)に師事した。
「特定の細菌が 特定の病をもたらす。」
これが先生の持論だった。
師匠ロベルト・コッホ ベルリン大学
この偉大な師匠はあらゆる事に厳格であった。だが柴三郎は彼が要求した仕事を愚直にこなして行く。条件別に採られた何種類ものシャーレの反応を四六時中監視せねばならず、柴三郎の勤務時間は12~15時間に及んだ。それが休日も無く毎日続く。その為、研究に泊まり込む事も珍しくなかった。他の研修生達は彼がいつ寝ているのだろうと不思議がったそうだ。当然、この極東から来た学生を師匠は非常に気に入ったようだ。留学中の柴三郎は下宿~大学研究室を往復するのみで、他の道は全く分からないという有様だったと言う。
1890年 このような熱意を研究に注いだ結果、遂に破傷風菌の純粋培養に成功した。これまで多くの細菌学者が同定し得なかった破傷風菌。嫌気性の同菌の性質を利用し、培養方法を工夫した上での発見だった。またこの菌を少量づつマウスに与えると 次第に菌に慣れて発症しなくなる事を突き止めた。これはマウスの体内に「菌に対する抗体」ができた事を示していた。このような事から「血清療法」が確立された。同僚のベーリングもジフテリア菌を発見、血清療法で治療できる事を証明し、連名で成果を発表した。
ベーリング 血清療法確立を記念して
だが、ノーベル賞はベーリングのみに与えられた。柴三郎はこれに対し一言の不満も述べなかったし、その素振りすら見せなかったと言う。不公平な授与の要因の一つにはジフテリアは多くの子供が罹患していたが、破傷風は世界で5万人程度だった事、そして当時は共同受賞の習慣が無かった事、日本は極東の小国であり 知名度が低かった事などが挙げられる。差別に関する明確な証拠はない。
破傷風菌
ここで血清療法とは、感染症の原因となる細菌を特定・培養し 弱毒化または死滅させた溶液を人間(動物)体内に注射する事で、生体に免疫を作る治療法である。現在のワクチンの製法もこれと同じ。この方法は人類を多くの感染症の恐怖から解放した。蛇毒からの救命にも用いられている。
それまではパスツールの予防接種しかなかったが、血清療法は罹患患者を直接治療する事ができる革新的方法であった。この方法は抗生物質が発見されるまで主導的治療として用いられた。現在でも破傷風や蛇毒の治療に使われている。
惜しまれて帰国、しかし・・・・
1892年(M25) 細菌学の最先端を学んだ39歳の柴三郎は、明治天皇の御意向で1年間延長を含む留学期間を終え帰国する事にした。彼の業績や熱意を買われて、ベルリン大学やコッホ研究所、特に師匠は彼を引きとめた。また仏パスツール研究所や米国研究所、製薬会社からも破格の高待遇での着任要請があった。英国ケンブリッジ大学からは 恐らく彼の生涯所得の何十倍に匹敵する厚遇を以て研究所所長としての要請もあった。(たとえば米国の示した条件は、現在換算で年間50億円の研究費と、別途年間5億円の給与だった)
しかし彼はその全てを断った。国費で来た事、それは日本国民に成果を還元する任務がある事などで、どうしても帰国すべきだと考えていたのだ。
だが帰国した彼に研究の場は与えられなかった。業績の価値を理解せぬ国家や母校。東大内では恩師緒方正規(おがたまさのり)が、海軍などで蔓延していた脚気(かっけ)は脚気菌によるものだとして治療に当たっていた。だが留学中だった柴三郎は、実験の結果 脚気菌など存在しない事を正面から主張した経緯があったのだ。
この病は進行すると急性の心臓障害を発症、その後死に至る場合がある。現在、同疾病は白米食普及によるビタミンB1欠乏症だとされる。だが当時は緒方説が優勢であり、かの森林太郎(鴎外)もこれを支持しており、「人情に欠ける所業」として柴三郎を非難した。東大総理 加藤弘之は柴三郎を「師弟関係を解さぬ人物」と批判した。緒方は柴三郎が独留学をする際 コッホに紹介状を書いてくれた人物でもあった。柴三郎は離れていたとは言え、言葉を尽くして緒方の誤謬を本人に知らせるべきだった。しかしながら「中外医事新報」に投稿した柴三郎の論文では緒方説を「誤迷も甚だしい」と痛烈に批判し切り捨てている。
学内から湧き上がる非難の声に対し、彼はこう言った。
「私は私情を忘れたのではない。私情を抑え 学問の為 真実を述べたまでだ。」
真理とは本来、人の都合とは無関係であり 人情とは無縁な位置にある。しかし我々が社会的生活を営む限り、対人関係がついて回るのもまた事実。恩師へのリスペクトは欠いてはならない。これを無視するなら、非難され孤立無援の生活を強いられる事を覚悟せねばならない。だが柴三郎の言うとおり恩師へのそれを欠いた訳ではない。現に帰国後も緒方とは親しく話をしていた。ただ表現が直球過ぎたのだ。
一般的には「対人関係は難しいね」とまとめられるだろう。では真理を追究する科学者として取るべき態度はどうなのか? 人情に忖度し真理を曲げるのか? 結論は言うまでもない。
救いの手
そのような時、彼の前に現れた人物が福沢諭吉だった。諭吉は適塾(緒方洪庵設立 大阪に医学校を建築)出身だった。諭吉には慧眼があった。この困窮する研究者の才能を見抜き、私立伝染病研究所の設立を提案、その土地と資金を無償提供する。そして持論を以って彼を諭した。
「国家に頼らず 国家に報いる。」
この提案は柴三郎にとってまさに渡りに船だった。こうして帰国した1892年に念願の研究所は建てられたのである。だが今度は付近住民が「伝染病」と聞いて建設反対運動を起こした。諭吉は次男をわざと研究所付近に住まわせて
「ほ~ら、わたしの子供も住んでます。」
と言って住民をなだめたのだった。
この研究所では全国から有能な若者が集まった。そこで近代医学に基づく様々な伝染病研究や診断、対処法の紹介、治療薬配布や入院ベッドをも完備した。
当時の研究所外景を模した記念館
翌1893年には結核患者の為に「土筆ヶ岡養生園(つくしがおか ようじょうえん)が構築された。後の「北里研究所病院」である。
ペスト菌の発見
1894年(M27) 柴三郎41歳の時、香港の日本領事館から政府に電報が届いた。「清国広東地方でペストらしき伝染病発生。致死率90% 至急調査を依頼する。」
政府は早速柴三郎に香港派遣を依頼した。調査団が組織され香港に出向いた彼らは驚いた。現地では目を覆うばかりの惨状だったのだ。患者が施設の廊下にまで寝かされていた。
派遣スタッフらは必死になって原因を探った。柴三郎は死体を解剖しその血液を調べた。すると今まで見たことも無い細菌が目に留まった。
「これがぺストの元凶かも知れない。」
果して純粋培養した菌をラットに注射すると、それは紛れもなく患者達と同様の症状を呈していた。これが世界で初めてのペスト菌発見だった。人類が1500年間苦しめられて来た伝染病の正体。それを派遣されてわずか5日で(3日とも)原因を突き止めたのだ。またネズミの体内から同菌が発見された為、香港当局にネズミの徹底駆除を提案した。そのお蔭を以て中国のペスト流行は3ヵ月で収束した。
これまで大量の死者を出し(中世では欧州人口の1/3が死亡 全滅した村もあった)、長年苦しんで来た歴史を持つ西洋人にとっては まさに青天の霹靂だったに違いない。この後、某スイス人学者が「ペスト菌発見は私だ」と主張したので一時世界はそれを信じた。
一方、調査団に犠牲者も出た。手袋もないまま患者と接触する為 スタッフ3名が感染、うち1名が死亡した。同時期に東大の青山胤通(たねみち)も来ていたが罹患して活躍できなかった。
森林太郎(鴎外)は柴三郎のペスト菌発見を「あの菌はニセモノである」と述べた。かの著名な文豪も医者としてはいささか精彩を欠いていたようだ。
柴三郎は急ぎ菌を持ち帰り血清を作り始めた。また主な港湾に検疫所を設け、ペストの日本上陸に備えた。その効果は顕著で、間もなく日本で初のペスト患者が出た際、その後の大流行を食い止める事ができた。患者第一号発生から僅か2ヶ月で日本のペストは収束させる事ができたのだった。
内務省所属機関から文部省傘下に
1899年(M32)研究所は数々の功績が認められ内務省所属となった。全国の衛生管理を行う内務省に属せば、より効率的に仕事ができる。伝染病封じ込めに迅速な行動が取れると期待できた。柴三郎や職員達は喜んだ。
ところがである。1914年(T3) 彼が61歳の時、国の仕分けにより研究所は文部省管轄になってしまった。文部省下で伝染病の何ができるのか。研究だけでは伝染病は防げない。しかも東京大学の下部組織に位置付けられるとは。おまけに今度の所長はあの青山胤通・・・・。国や大学からは一切の連絡も無し。柴三郎は激怒した。「文部省傘下など研究だけで終わってしまう。現場を知らぬ者達の采配だ。迅速な対策実施などできなくなる!」
これには東京大学の意向が働いていたのだ。端的に言えば権威と功績上の嫉妬である。国立の東大を差し置いて、目覚ましい活躍で世界的に認められたのが私立の研究所。誇り高き東大の教授陣には断じて許されぬ屈辱なのだ。しかしね、大きな実績を上げたものが世界の注目を浴び、そうでもないものが「目立たない」、これ当然の事ではないか? この東大の所業は、当時世間から医学界のスキャンダルとさへ言われたものだ。