般若心経の意味 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

般若心経の意味

「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。般若心経でいう智慧は、「生体現象」のことです。「我が身の体感覚知」の事です。

「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。

大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。

「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。

つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。⇒正確には「心臓の拍動」の現象を語っているのです。

「心臓の拍動」とは「生身感覚同期」の事を語っています。「言葉」「文字⇒イメージ」ではなく「体感する事」が「般若心経」のメインなのです。

参考ブログ

「生身感覚同期」は「体感現象」です。2024-06-13 05:54:46

「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからです。

 

『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。⇒「真言」とは電磁波同期による「信号」を意味しています。「真言」と言う「言葉」「文字」に囚われ「言葉」「文字⇒イメージ」になっているのが現代までの歴史的な経緯です。現代だから「真言」が「音声信号」だと感知できるのです。

 

ブッダの生きていた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、ブッダは、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱できると考えました。

 

仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。

 

観自在菩薩(観音さま)と長老シャーリプトラ(弟子)

『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。

仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、ブッダの教えを解釈し、体系化したものが「論」です。

 

小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがブッダの教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。

「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。以下にこの2つを説明しましょう。

 

般若心経の中で重要な概念は、空の思想です。空とは「実態のない」ことを指しています。

仏教は、大別して小乗仏教大乗仏教に分けられます。般若心経の考え方は、大乗仏教に属します。

小乗仏教は、仏教の修行をしている人のみが悟りの境地に辿り着くのに対し、大乗仏教は仏教の修行をしている人、してない人も全ての人が悟りの境地に辿り着くための教えです。

空の思想には個別の物事に捉われない、執着しないという考え方は、すべての人が悟りの境地にいたれるとされています。

 

先程述べたように「空」は「からっぽ」ではなく、「実体がない(定まった形がない)」という意味を表しています。

般若心経では「全ての物事は変化し続ける」ことを前提として「変化し続けたとしても物事の本質(核)が存在することは変わらない」と伝えています。

たとえば「老いて見た目や考える能力が低下しても、周りからの評価が変わったとしても、私は私である」という考え方です。

言い換えれば、変化という現象に捉われに、本質に目を向けなさいという教えです。

 

世の中の価値観に囚われない

「空」の思想である「実体がない(定まった形がない)」とは、またひとつの物事に執着したり、与えられた価値観に捉われる必要はないことも説いています。

たとえば宝石を美しいと思うのは、始めから美しいと定められたものではなく、人間が勝手に美しいと決めているだけであり、またその美しいかどうかを感じる心もそれぞれということです。

般若心経の後半では、「真言(しんごん・呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。

「真言(しんごん)」とは、「真実のことばでブッダの真理を説き、その徳を称える短いお経」です。

梵語(サンスクリット語)をそのまま音写したもので、真言は短いお経を言い、長いものは陀羅尼(だらに)と呼びます。

「真言宗」や「真言陀羅尼宗」は多くの真言や陀羅尼を唱えるのでそう呼ばれています

「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。

 

本来、「真言」は経典や 仏の智慧を心の中に呼び起こして保持するための言葉です。「真言」を唱える瞑想の中で、集中力の高まった直観的な智慧の体験を何度も経験していて初めて、「真言」を唱えることが条件反射的に智慧の体験を導くのです。⇒検証不能の言葉でしかないのが現実現象

 

一般に「真言」の内容は、教説を凝縮した象徴的な言葉であったり、祈願や帰依の言葉ですが、「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の意味よりも響きが重要とされます。

つまり、 『般若心経』の「真言」は「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。もともと「真言」というものは智慧を導び き、智慧に等しいものですから、 『般若心経』の「真言」は「真言」そのものであり智慧そのものだと言えます。

 

そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて 悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。ですから、「般若波羅蜜多」の 神髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」=「真言」であるというのが 『般若心経』の主張なのです。

「ブッダ」の教えを「言葉」「文字⇒イメージ」に現象反転させ残してくれていますが、誰も「ブッダ」にはならなかったという歴史的な検証証明・現実現象が循環しているのが事実です。

「物語」「ストーリー」のお話は「自我機能同期」では常に循環しているのです。何故ならば「智慧の完成完結」の現象化が無いからです。

現実現象として公開動画の田中雅博氏の動画を見ればわかります。田中氏は終末医療の第一人者で僧侶でした。奥様も同じ終末医療の第一人者でした。 

田中夫妻の「物語」「ストーリー」も「般若心経」に集約・凝縮されるのです。何故ならば、膨大な「般若心経」のエッセンスが集約・凝縮されている事と同じ「写し・転写」だからです。

600巻のエッセンスをわずか262字で表現しているのが般若心経だからです。

公開用「田中雅博」2017年09月18日54分31秒

ブログの「受け手の方々」公開動画の「視聴者の方々」の「物語」「ストーリー」も「般若心経」に集約・凝縮されているのです。

「心経」とは、心臓の働き作用であり、正しい道・真理の道を示す用語です。⇒「生身感覚同期」の事をいいます。