「般若心経」の歴史的経緯 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

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「般若心経」の歴史的経緯

「般若波羅蜜多」について説く経典は多くあり、それらを総称して般若経典と呼びます。般若経典は紀元前後から作られ始め12世紀頃まで作られました。『般若心経』はその中のひとつで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。

西遊記に出てくる三蔵法師として有名な玄奘(げんじょう、げんぞう)がインドから中国に持ち帰った「大般若経」が原書とされています。三蔵法師はサンスクリット語で書かれていた大般若心経を漢語に訳し、600巻ほどにしたためました。

そして、その600巻のエッセンスをわずか262字で表現しているのが般若心経です。般若心経には仏教の真髄となる教えが凝縮しています。⇒お話の伝承

般若心経は今から1300年以上前に翻訳されて、その後長い時間をかけて世界でもっとも有名な仏教のお経と呼ばれるようになりました。 世界中で受け継がれているのには理由があり、その理由は「般若心経がわずか262文字(260文字もあり)の漢語の短い言葉の中に仏教の教えを見事に表している」からといわれています。

 

『般若心経』がいつどこで書かれたはっきりしていません。インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。

※全てが推定・推測の「お話し」です。「般若心経」自体が「物語」「ストーリー」として現代まで伝えられているのです⇒「おとぎ話」の基本パターンです。

 

4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。

『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。

歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られた経緯が伝承されています。作者不明が現実現象です。まさに「おとぎ話」と同じ伝承が現代まで語られている「物語」「ストーリー」なのです。

 

現代語訳⇒伝統仏教宗派により異なっています。

紹介の現代語訳は一般的に日本で流布している「お話し」です。

 

私はこのように聞いています。ブッダが大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、ブッダは深い悟りの瞑想に入られました。

 

その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。

「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。

 

しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ」と。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。

ブッダの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。

5つの要素⇒色・受・想・行・識の五つの執着です。 「我」「我に所属するもの」という執着を我執といいますが、色は自分の身体に対する我執です。 そして受・想・行・識は四つの心の働きに対する我執です。 これは、お釈迦さまが「一切の苦を総合した苦」として説かれた五取蘊苦です。

 

「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。

「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。

 

体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。

これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとブッダが説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。

シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。

このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません(つまり、ブッダが説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。

 

迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。

 

このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。

ですから知らないといけません。“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。

 

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)

シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」

 

この時、ブッダは瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられ

ました。そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はブッダの言葉に喜びました。

以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。

 

「信じる」「行じる」が「不安の補完の行」です。一切現象化はしません。伝統仏教の現実現象です。残すためにもたらされている現象だからです。⇒「ワンピース」の世界観と同じ「物語」「ストーリー」です。