西田哲学「善の研究」 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

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「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

西田哲学「善の研究」

古今東西の名著・名作の全ては「不安の補完」に伴う個人・個別の「探求旅」「巡礼旅」でしかありません。いわゆる「般若心経」バージョンの「物語」「ストーリー」が循環しているだけの事です。「知識の刷り込み⇒刻印付け⇒上書き現象」です。⇒「写し・転写」の働き作用です。

「写し・転写」については先般の「ブログ」を参照して下さい。

「横山紘一」の「写し・転写」の視点2024-03-04 05:48:18

「主人公・主役」の人々は、ただ年老いて「こんなはずじゃなかった」で「この世の旅」「この世の観光旅行」を終えているのが現実現象です。

 

「善」とは「自我意識」が生成した「不安の補完先用語」です。「善」なる現象化の確認検証は出来ないのが現実現象です。虐待・いじめ・戦争・DV等未だに循環しています。

あえて言うならば「善」とは「誕生し⇒生まれてからの生長のための養育過程に、親の善なる行動」があると言えます。

 

「般若心経」バージョンは「写し・転写」の視点がわからないと、いつまでも。どこまでも「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの循環になるだけです。仏教系の僧侶・信仰者が毎日、「般若心経」を読誦しても、結果的に「不安の補完先」循環でしかないのです。

 

ウィキペディア(Wikipedia)

「善の研究」西田幾多郎41歳の時に著した作品。1911年(明治44年)刊。

参考サイト

100分de名著92「善の研究」 概要2019年10月

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/92_nishida/index.html

「善の体得」の方法については具体的に語られていません。「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの「善とは、何か?」の「問いかけごっこ」です。戦時中の反動形成⇒反作用としての現象化です。敗戦後の「善なる事」に対する若者たちの「問いかけ」の期待としての「善の研究」だったのです。べストセラーになっても、ただそれだけの現象でした。

全てが「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びだからです。求めても、探求しても、何も変わらない現実があるだけです。だから「不安の補完」が循環しているのです。

ブログの「読み手」「受け手」の方々、公開動画を視聴している方々の現実現象はほとんど何も変わらないままが現実です。私たちの日常生活では「全身感覚⇒生身感覚」不在の「自我感覚」が支配しているからです。

1947年(昭和22年)7月19日 発売前の様子『西田幾多郎全集第一巻』購入

西田哲学に付着する「般若心経」バージョンの当時の若者たち

担当プロデューサーの「おもわく」

日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。しかし「哲学」という言葉が翻訳されたばかりの日本では、およそ自分たち独自の哲学を構築できるなど思いもよらないことでした。そんな時代に、禅などの東洋思想や西洋の最新思潮と格闘しながら、日本だけのオリジナルの哲学を独力で築き上げようとした人がいました。西田幾多郎(1870-1945)。彼のデビュー作にして代表作が「善の研究」です。西田の思想的格闘が凝縮したともいえるこの名著を、現代の視点から読み解くことで、「生きるとは何か」「善とは何か」「他者とどうかかわるべきか」といった、人生の根本的な問題を深く考えていきます。

西田は、近代の西洋哲学が確立させた、認識する主体/認識される客体という二元論を乗りこえるべく、「純粋経験」という概念を考案しました。主体と客体は抽象化の産物にすぎず、実際に我々にもともと与えらえた直接的な経験には、主体も客体もありません。たとえば私たちが音楽に聞き入っているときには、「主体」が「対象としての音楽」を把握しているのではなく、主客未分の純粋な経験がまず根源にあるといいます。そこからさまざまな判断や抽象化を経て、主/客の図式ができあがるのです。経験の根源である「純粋経験」に立ちもどらなければ、真理は見えてこないと西田はいいます。

この立場から世界を見つめなおすと、「善/悪」「一/多」「愛/知」「生/死」といった様々なに二項対立は、一見矛盾しているようにみえて、実は「一なるもの」の側面であり、「働き」であることがわかります。西田哲学は、合理主義的な世界観が見失ってしまった、私たちが本来もっている豊かな経験を取り戻すために、非常に有効な手立てを与えてくれるのです。

この難解な西田哲学を読み解くためには、4つの章を逆順に読み進めるのがよいと提案するのが批評家の若松英輔さん。西田が強靭な思考力で歩みぬいた過程は、問いの繰り返しであり常人には歩みがたい。けれども結論部分を実感的に読むのは意外にも容易で、頂上から降りていくように読み進めると、自ずと西田自身の言葉が語りだしてくるといいます。