「横山紘一」の「写し・転写」の視点 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「横山紘一」の「写し・転写」の視点

意識現象の「写し」「転写」「翻訳」の現象化について「鏡の法則」から伝えます。

わかりやすい実例が横山紘一氏の公開動画「唯識・心の秘密」⇒図書「唯識の思想」で語られています。ほとんどの「受け手」はスルーしてしまう部分です。

 

「心」と言う単語・用語は解釈仮説の言葉です。横山氏の意識現象では「『心』がある事」が大前提に語られています。「心」と「意識現象」が混同しています。

現代人のこの混同が、わかりにくくしているのです。「心」は「自我機能」による「不安の補完先」です。「意識」は「生身感覚現象」の反応の事です。

「鏡の譬え」ですが「写し・転写」は、ナマDNAは常に100%です。

 

公開動画「一人一宇宙」前半10分前後~

「唯識の思想」2016年3月10日発行24頁より

引用部分

鏡の前に立つ。すると私の意志や意図とは無関係にそこに鏡像が生じます。私の意志とは関係ないという点が重要です。「私」は顔の鏡像を見ざるをえないのです。だから私が見るのではなく、見せられているのです。

この見るという一瞬の出来事が生じる事に「私」は全く関与していません。

そこには「私」を超えた力⇒(力と言うより「理」と言った方が適切かもしれません。)が働いていると言わざるをえません。その理は、あとで検討する事になりますが、「縁起の理」です。

鏡の前に立つという縁を得て、鏡像と、それを見る視覚とが生じたのです。しかし鏡像の製作はそれで終わってはいません。

 

絵を描くことに例えれば、そこまでは「視覚」と言う感覚によるデッサンがなされたのです。そのデッサンされたものに色付けするもの、それが「思い」です。

先ほどの例で言えば「老いの憂愁感」という「思い」とさらに「言葉」を付与して、「自分の顔はなんと老けたことか」と嘆きます。老いを感じるのは、その顔に「自分と言うエゴ心」が存在するからです。

 

このように、一つの顔というものが、作り出されるためには、自分というエゴ心を背景として「感覚」と「思い」と「言葉」の三つが共同して働いている事に気づきます。⇒現実現象は「共同」ではありません、「同時・同事」です。

 

この「感覚」と「思い」と「言葉」のうち「感覚」は、それほど個人差はないでしょう。しかし、「思い」になってきますと、人によってかなりその種類や内容が違ってきます。⇒「思い」が「翻訳」現象です。

例えば、春に咲く桜を見てきれいだとめでる人がいる一方、あまりに華やかで心が落ち着かず、梅の花のほうが好きだという思う人もいます。それは、その人の深層の心のあり様が異なっているからです。

「深層の心のあり様」とは解釈仮説でしかありません。「写し」「転写」「翻訳」の「翻訳」の違いです。そもそも「深層の心」なる言葉事自体が「自我機能の不安の補完先」です。

ここからの内容が仏教学的な解釈仮説です。⇒「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びです。

いまは桜の花の好き・嫌いを例に出しましたが、問題は「貪り(むさぼり)」、「瞋り(いかり)」などの煩悩と言う思いで色付けされることです。

憎い人、そこに「瞋(いん)いかり」という煩悩によって、あるいはこれこれの地位や名誉がほしいというとき、そこには「貪り(むさぼり)」という煩悩によって色が塗られたのです。

だからできれば煩悩の心ではなく、その反対の善の心で色付けしたいものですが、なかなかできません。何故なら、深層の心が濁っているからです。

 

次の「言葉」は、絵を描くことに例えれば、最後に筆を入れて絵を完成する働きをします。「それは~なのだ」と言葉で語った瞬間に、語られたその「もの」は、それがそれとしてはっきり認識されます。⇒「言葉」「文字」による意味の確定⇒「名詞」「名前・名札」の決定⇒ラベリング

 

以上のように、「心は絵師の如く」、自らの心をキャンパスとして、その上に「感覚」と「思い」と「言葉」との三つの色を用いて様々な絵を描いているのです。

まさに心が織りなす複雑な世界、それが、私が認識する世界です。25頁

 

「心は絵師の如く」と言えども、ピンと来ないのが現実現象です。

現象還元すると「イメージ現象」の事です。「イメージ」は「言葉」「文字」ではありません。自分自身の中から何らかの刺激により湧き出て来るビジュアル映像です。この事は誰でも既に体験済みの事です。

古今東西の「物語」「ストーリー」には必ず「翻訳転写」による「意図」「思惑」が混入しているのです。誤読・誤謬の要因になっています。

ちなみに「心の濁り」の浄化方法が「ヨーガ」と言う「座禅・瞑想」でしかないのです。各仏教各派も同じ事を伝統仏教として、2500年以上行っています。

 

「憂愁感(ゆうしゅうかん)」うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと

現代人の多くは「憂愁感(ゆうしゅうかん)」の意味がわかりません。横山氏との同時代的差があるからです。「言葉」「文字」は、その時々の時代により意味が変質・変貌しているのが現実現象なのです。「生身感覚」には、そのような変質・変貌はありません。

鏡の写し出しについては「西田幾多郎」が哲学的論考を提唱しています。