「おかしさ」と「わからなさ」の病理⇒公開動画の要約コメントです。
「見る者」が「生身」で見ると「見る対象」の「生身」を自然に感知できます。
講演会⇒演題・・・「『おかしさ』と『わからなさ』の病理」2004年11月16日(火)20年前
冒頭の話しに出て来る生徒指導担当・国語教師(家本芳郎1930年―2006年75歳没)は群読指導等で有名な先生でした。教員仲間ではカリスマ的存在でした。
団塊世代の児童生徒の指導では管理教育指導が唯一の方法でした。まあ、戦前教育を受けて来た世代文化⇒指示・命令⇒集団集合教育の「刷り込み⇒刻印付け」があったのです。
「自我機能同期」の教師・教育者には「価値のリード」と言う「気づき」がありませんでした。
「価値のリード」とは現実現象の見方を通し「今、やるべき事を相手に伝える事⇒技」です。
「正しさを教える」は常に大人の目線⇒意図・思惑でしかありません。しかし、国により「正しさ」が異なるのです。生身無き文明の「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの現実現象です。
思春期の心理的特性は「快感原則」の体感を通し「大人ブル⇒模倣する事」に面白さを見出す事にあります。⇒非行に伴う悪事は面白いのです。「面白い事」を通し「悪事」を学んでいるのです。このような見方をする「偉い人」「有名人」はいません。何故ならば、彼らは「気づけ無い場」に意識があるからです。
私は、講演前の10月には既に大学教員を退職する事を決めていました。「それなりにやり切った」と言う思い⇒「やり尽くし体験」による退職です。「やり切る」と先が見えて来るのです。
不謹慎な表現で言うならば「飽きてしまった」「教育とは国の都合システム」による「意図・思惑」に気づいてしまったのです。全てが「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの循環である事に気づいてしまったのです。
「やり尽くし」「やり切り体験」は、親父の格言です。
「どんな事でも、やり切り、やり尽くせば、飽きる、飽きたら、次が見えて来る。物事はやり切り、やり尽くしすれば、自然に先が見えて来る、浮かんで来る」この事を自然同期による「生長シフト現象」と言います。「個人・個別」のオーダーメード現象としての体験反応です。
身近な人間関係で観察される離散・分散していく事は誰もが体験している事ですが「自我機能」の「意図・思惑」です。「やり切り」「やり尽くし」の体験ではありません。「未完の完結」ゆえに「悩み」が循環するのです。実例⇒「失恋に伴う苦悩等」
「やり切り」「やり尽くし」の体験では先が自然に見えて来る⇒「如来・去来現象」です。
わかりやすい「やり尽くし」「やり切り体験」の身近な実例は、
お腹がすいている時に、満腹になると「もう食べれない、お腹いっぱい、いい」と言う「思いが自然に出て来ます。いわゆる「満腹感」です。「寝すぎ」の場合も「もういい、寝疲れた」と身体(からだ)が反応します。日常生活での「やり尽くし」「やり切り体験」です。
「やり尽くし」「やり切り体験」は「言葉」「文字(映像)イメージ」遊びの世界ではわかりません。しかし「自分自身の身体(からだ)」は、既に誕生前から知っているのです。
「『おかしさ』と『わからなさ』の病理」とは「生身感覚を無視する世界観」が気づきの為にもたらせている現実現象なのです。
今日も「メディア情報」「インターネット情報」も「おかしさ」と「わからなさ」の病理現象を循環しています。