国枝史郎②
国枝史郎はまぎれもない愛妻家である。
妻のすゑさん(旧姓市川)は、写真を見ると、まさに鄙には稀なる麗人という風情。
大正12年(1923)1月に二人は岐阜県の中津川で結婚したが、このとき34歳の史郎に対して、新妻すゑは21歳。
実に13歳の年の差婚だが、このころは珍しくもなかっただろうか。
国枝は、若い妻のすゑさんのことを、親しみをこめて「奥さん」と呼ぶ。
奥さんは私より十三下だが、十三年上を以て任じている。
「ね、坊や」と私のことを云う。
とは昭和2年(1927)3月に発表した「蜜蜂」の中の一文だ。
年齢差を越えて夫を子ども扱いする「すゑ」と、これを甘受し、むしろ妻に甘えかかるような「史郎」という、甘い関係が、おそらく彼の死まで続いた。
その意味では国枝は、とても幸せな一生だったと言える。
この奥さんのことを、同年のうちに三度、国枝は小説に書いている。
3月「蜜蜂」(『大衆文芸』)
4月「郡上の八幡」(同上)
7月「奥さんの家出」
(『新青年』)
「蜜蜂」では、二人が名古屋へ来た当座の苦しい暮らしぶりが描かれる。
名古屋に住んで五年になる。
震災直後来たのである。
(中略)
震災で雑誌社が潰れたのである。
原稿の買手が無いのである。
この苦境のなかで国枝夫妻は「ひどい新開の工業地」に住み、「生鰯ばっかり食って」いたという。
そんな「或日私は大勇猛心を起こし」就職活動に出かけはしたが、A新聞社もB会社も「よい履歴の」彼を敬して遠ざけたという。
そんな苦難の日々にも奥さんは、暢気というのか浮き世ばなれしているのか、史郎の深刻悲愴ぶりにはけして染まらず、近所の子どもらに大いに好かれ、花にも魔法をかけて育て、日々おっとり優雅に暮らしている。
「郡上の八幡」では、中津川での二人の馴れ初めが、てらいもなく語られている。
木曽福島から中津川に移って来た史郎は、すでに小説に手を染めてはいたが、まだ当たりはなく金がない。
にも関わらず史郎は、この小さな町では「一流の旅館」に泊まって、先生と呼ばれながら療養している。
史郎の場合は暢気なのではなく見栄からだと、当人も自覚している。
まるっきり収入の無い時には、案外金があつまるもので、少しばかり収入のある時には、ちっとも金が集まらない
などと嘯いているが、中津川では借金が貯まって、いかんともしがたい境地に追い込まれた。
このころ史郎の病は重く、「普通の病人」にも見えないほど痩せ細っており、ほんの二町も歩けば昏倒してしまう体たらくであった。
まだ奥さんではなく娘さんだったすゑは、「中津川から北に三里」のところにあるS町(坂下町、現在は中津川市坂下)の実家から毎日、できて間もない鉄道で通って来て、終日かいがいしく史郎を看護した。
ところがこのころ、史郎には他にも惚れた女がいた。
芸者であった梅家の叶子が「綺麗だった」とは、すゑの評。叶子はおそらく国枝の、田舎では見られない都会性だとか学者ぶりに惹かれはしたが、病の重さのために彼に背を向けた。
国枝は、といえば「其頃の私は、可成り自信のあるドン・ファンであった」とまで自負する割に、
「勝負!惚れるか惚れないにある。惚れたが最後ドン・ファンの冠を落とさなければならない、
ところが私は惚れていた。冠を半分おとしかけていた」
と、こうだ。
たかのしれた田舎芸者に対して、この体たらくとなったのは、史郎の為に弁護するなら、業病とそれによる容貌の激変、気力体力の喪失のせいだったろう。
賢明にも史郎は逃げた。
その芸者が唄ったのが「郡上の八幡」で、同じ唄をすゑも中津川で唄った。
すゑは、こんな風に病のために絶望の縁に立ったいた国枝にも魔法をかけた。
「治りそうにもないね」とぶっきらぼう
「屹度治るわ、ええ直ぐに」
「治りそうもないね」同じ返辞。
「治ったら恵那山へ上りましょうねえ」
それから、史郎は病身に鞭打って、通俗物の売文と自ら卑下しながら、初めて髷物小説を書き始めている。
芸者との鞘当てがあったのは5月のこと。
同月24日付で国枝は、関西時代の友人で女流歌人の阿部文子に宛てた書簡に、こう心情を綴っている。
通俗物はポツポツ書いてゐます。七月頃から講談雑誌へ、又、一ケ年つづきの私の下手な旧派物の小説が出ます。(中略)笑は無いで下さい。これは生活費ですから。
(末國善巳『神州纐纈城』講談社大衆文学館「人と作品」より)
この「旧派物の小説」が国枝の出世作「蔦葛木曽桟」だとされている。
中津川に来た当座の国枝は、
「まるっきり収入なんか無かった」という。
その中津川で、国枝は思いもよらぬ恋をし、怖じ気づいて逃げ出さねばならない境遇にあった。
意にそまぬ、この小説を書き出したのは、その葛藤を解決するため、つまりは中津川に来てからでは無いかと、私は思っている。
「蔦葛」は、木曽谷の藪原長者が抱える美貌の、しかし曰くつきの遊女「鳰鳥」をめぐる争いから始まる。
鳰鳥に与えられた遊女と姫君との二つの顔は、芸者叶子と処女すゑとに置き換えられはしないか。
ここではこれ以上作品論には踏み込まないことにする。
叶子とすゑの素性にも、踏み込まないことにする。
ともかくすゑは、看護のかたがた、国枝に生きる希望を与え、中津川での新居まで用意した。
真夏、旅館を出て二人は裕福な農家の杉田さん宅に、間借りして新生活をはじめた。
末っ子で甘やかされて育ったすゑは、利口だが何事にも己の意思を通す娘だ、というのは母親の評。
国枝は人伝にそう聞いて、その生活を受け入れ、創作に打ち込んだ。
とにかく岐阜県の中津川で、
国枝史郎は最愛の妻と、大衆文学という天職を二つながら手に入れた。
名古屋に移ったのはそれから後のことだ。
名古屋での暮らしのなかで、虚酔しいたすゑは、郡上の八幡を口ずさんで見せた。
国枝はかつてその歌を唄った二人の女とともに中津川での暮らしを思い出す。
この唄は国枝にとって、自らの運命を開いた中津川の良い思い出である。
しかしこれを唄った妻のすゑには、良い思い出とばかりは言え無かったらしい。
嫉妬と見ては単純すぎるかも知れない。これも私の邪推である。
「奥さんの家出」については、あえて中身にまで踏み込まない。
ただそこには、国枝の「奥さん」に対する愛と依存、それ故の恐怖とが克明に描かれているとだけ述べておく。
国枝史郎はまぎれもない愛妻家である。
妻のすゑさん(旧姓市川)は、写真を見ると、まさに鄙には稀なる麗人という風情。
大正12年(1923)1月に二人は岐阜県の中津川で結婚したが、このとき34歳の史郎に対して、新妻すゑは21歳。
実に13歳の年の差婚だが、このころは珍しくもなかっただろうか。
国枝は、若い妻のすゑさんのことを、親しみをこめて「奥さん」と呼ぶ。
奥さんは私より十三下だが、十三年上を以て任じている。
「ね、坊や」と私のことを云う。
とは昭和2年(1927)3月に発表した「蜜蜂」の中の一文だ。
年齢差を越えて夫を子ども扱いする「すゑ」と、これを甘受し、むしろ妻に甘えかかるような「史郎」という、甘い関係が、おそらく彼の死まで続いた。
その意味では国枝は、とても幸せな一生だったと言える。
この奥さんのことを、同年のうちに三度、国枝は小説に書いている。
3月「蜜蜂」(『大衆文芸』)
4月「郡上の八幡」(同上)
7月「奥さんの家出」
(『新青年』)
「蜜蜂」では、二人が名古屋へ来た当座の苦しい暮らしぶりが描かれる。
名古屋に住んで五年になる。
震災直後来たのである。
(中略)
震災で雑誌社が潰れたのである。
原稿の買手が無いのである。
この苦境のなかで国枝夫妻は「ひどい新開の工業地」に住み、「生鰯ばっかり食って」いたという。
そんな「或日私は大勇猛心を起こし」就職活動に出かけはしたが、A新聞社もB会社も「よい履歴の」彼を敬して遠ざけたという。
そんな苦難の日々にも奥さんは、暢気というのか浮き世ばなれしているのか、史郎の深刻悲愴ぶりにはけして染まらず、近所の子どもらに大いに好かれ、花にも魔法をかけて育て、日々おっとり優雅に暮らしている。
「郡上の八幡」では、中津川での二人の馴れ初めが、てらいもなく語られている。
木曽福島から中津川に移って来た史郎は、すでに小説に手を染めてはいたが、まだ当たりはなく金がない。
にも関わらず史郎は、この小さな町では「一流の旅館」に泊まって、先生と呼ばれながら療養している。
史郎の場合は暢気なのではなく見栄からだと、当人も自覚している。
まるっきり収入の無い時には、案外金があつまるもので、少しばかり収入のある時には、ちっとも金が集まらない
などと嘯いているが、中津川では借金が貯まって、いかんともしがたい境地に追い込まれた。
このころ史郎の病は重く、「普通の病人」にも見えないほど痩せ細っており、ほんの二町も歩けば昏倒してしまう体たらくであった。
まだ奥さんではなく娘さんだったすゑは、「中津川から北に三里」のところにあるS町(坂下町、現在は中津川市坂下)の実家から毎日、できて間もない鉄道で通って来て、終日かいがいしく史郎を看護した。
ところがこのころ、史郎には他にも惚れた女がいた。
芸者であった梅家の叶子が「綺麗だった」とは、すゑの評。叶子はおそらく国枝の、田舎では見られない都会性だとか学者ぶりに惹かれはしたが、病の重さのために彼に背を向けた。
国枝は、といえば「其頃の私は、可成り自信のあるドン・ファンであった」とまで自負する割に、
「勝負!惚れるか惚れないにある。惚れたが最後ドン・ファンの冠を落とさなければならない、
ところが私は惚れていた。冠を半分おとしかけていた」
と、こうだ。
たかのしれた田舎芸者に対して、この体たらくとなったのは、史郎の為に弁護するなら、業病とそれによる容貌の激変、気力体力の喪失のせいだったろう。
賢明にも史郎は逃げた。
その芸者が唄ったのが「郡上の八幡」で、同じ唄をすゑも中津川で唄った。
すゑは、こんな風に病のために絶望の縁に立ったいた国枝にも魔法をかけた。
「治りそうにもないね」とぶっきらぼう
「屹度治るわ、ええ直ぐに」
「治りそうもないね」同じ返辞。
「治ったら恵那山へ上りましょうねえ」
それから、史郎は病身に鞭打って、通俗物の売文と自ら卑下しながら、初めて髷物小説を書き始めている。
芸者との鞘当てがあったのは5月のこと。
同月24日付で国枝は、関西時代の友人で女流歌人の阿部文子に宛てた書簡に、こう心情を綴っている。
通俗物はポツポツ書いてゐます。七月頃から講談雑誌へ、又、一ケ年つづきの私の下手な旧派物の小説が出ます。(中略)笑は無いで下さい。これは生活費ですから。
(末國善巳『神州纐纈城』講談社大衆文学館「人と作品」より)
この「旧派物の小説」が国枝の出世作「蔦葛木曽桟」だとされている。
中津川に来た当座の国枝は、
「まるっきり収入なんか無かった」という。
その中津川で、国枝は思いもよらぬ恋をし、怖じ気づいて逃げ出さねばならない境遇にあった。
意にそまぬ、この小説を書き出したのは、その葛藤を解決するため、つまりは中津川に来てからでは無いかと、私は思っている。
「蔦葛」は、木曽谷の藪原長者が抱える美貌の、しかし曰くつきの遊女「鳰鳥」をめぐる争いから始まる。
鳰鳥に与えられた遊女と姫君との二つの顔は、芸者叶子と処女すゑとに置き換えられはしないか。
ここではこれ以上作品論には踏み込まないことにする。
叶子とすゑの素性にも、踏み込まないことにする。
ともかくすゑは、看護のかたがた、国枝に生きる希望を与え、中津川での新居まで用意した。
真夏、旅館を出て二人は裕福な農家の杉田さん宅に、間借りして新生活をはじめた。
末っ子で甘やかされて育ったすゑは、利口だが何事にも己の意思を通す娘だ、というのは母親の評。
国枝は人伝にそう聞いて、その生活を受け入れ、創作に打ち込んだ。
とにかく岐阜県の中津川で、
国枝史郎は最愛の妻と、大衆文学という天職を二つながら手に入れた。
名古屋に移ったのはそれから後のことだ。
名古屋での暮らしのなかで、虚酔しいたすゑは、郡上の八幡を口ずさんで見せた。
国枝はかつてその歌を唄った二人の女とともに中津川での暮らしを思い出す。
この唄は国枝にとって、自らの運命を開いた中津川の良い思い出である。
しかしこれを唄った妻のすゑには、良い思い出とばかりは言え無かったらしい。
嫉妬と見ては単純すぎるかも知れない。これも私の邪推である。
「奥さんの家出」については、あえて中身にまで踏み込まない。
ただそこには、国枝の「奥さん」に対する愛と依存、それ故の恐怖とが克明に描かれているとだけ述べておく。