国枝史郎⑧

大衆文学は講談の書籍化を進めた立川文庫から生まれた。
ただし国枝史郎の場合、単に伝奇小説を得意としたというだけでなく、こうはっきりと立川文庫に結びつけられているのは、彼の経歴に関わるのかも知れない。
国枝史郎が、大阪時代に当地の女性歌人たちと交流があったことは既に述べた。
当時の歌壇については実のところなにも知らないが、解説には阿部文子、矢沢孝子らの名が挙がっている。

彼女たちとの交流は、ただ歌人と記者との関係にとどまらず、大阪でバセドー病を発症した国枝は「孝子と文子に付き添われ長野県の実家に」帰ったという(末國善己①)。
さらに大正15年5月24日付けで国枝が阿部文子とその夫の照雄宛に送った手紙には、「大阪の友のうちでは、貴女、矢沢さん、蘭子さんなどが、特に親しく思われます」と書かれている(同上)。
この蘭子さんは、後に自身も作家となった(「女紋」昭和35年河出書房新社)池田蘭子のことで、立川文庫創始者の娘(真鍋元之②※)であった。
蘭子は立川文庫の編集にも携わっていたといい、国枝史郎は大衆文学の作家を志す以前に、立川文庫の編集者を通じて新作講談創作の要諦に触れられたのかもしれない。


ところで、そもそも伝奇とは何かといえば次のようなものだという。

中国,唐代の文語小説の総称。「奇なるものを伝える」の意で,もっぱら鬼神怪異の世界を描き,説話集の圏内にとどまる六朝時代の「志怪」に対して,より複雑な構成をもち,人生や社会の諸相に目を向け,自由に作者の空想力を働かせ,虚構文学の性格を強めている。
(ブリタニカ国際大百科辞典)
日本にも早くから伝えられ、平安時代の物語に大きな影響を与えた。
(大辞林)

つまり中国の文語小説は「奇なるものを伝える」ことから始まり発展してきたものだ。
その流れを汲んで、日本でも平安時代以来こうした物語の伝統があった、ということだろう。
辞書には日本の物語について具体的に書かれていからないが、「日本霊異記」や「今昔物語集」「宇治拾遺集」といった説話集の中に「奇なるものを伝える」奇譚の類が含まれているのは間違いない。
中世の能狂言や軍記物語中に収められた異伝・風聞の類、説経節などの口承文学の中にもこうした奇譚が含まれており、これを土台として浄瑠璃や歌舞伎、読本、後には講談のネタが生み出されてきた。
その流れの果てに国枝の近代伝奇小説は位置づけられる。

また、国枝史郎が短編小説上で悪党どもの異聞物語を展開するとき『緑林黒白』という、自ら「創出した架空の書物」からの引用という体裁を好んで用いている。
こうした手法は「江戸戯作の時代から用いられていた伝奇小説の定番」だという。
(「」内引用は末國善己②)
つまり国枝は講談や立川文庫だけでなく、講談を生み出して来た、より古い文芸からも自在にエッセンスを抜き出し取り入れていた。
これを言い換えれば、こういうことになるだろう。

 読本的、院本好みにせよ、あるいは民話的、伝説的にせよ、これらの諸要素はすべて、明治以来の日本の近代文学が捨てて顧みないものであったことを、指摘したいだけである。
 露伴、鏡花などをわずかな例外として、日本の近代文学はひたすらに合理性に立脚しての自我の解明にいそしんできた。そしてその結果は余計者的インテリゲンチャ向きの私小説となり、広汎な大衆のエネルギーとは無関係になり終わった。
 明治・大正・昭和を通じての日本文学が、このような細道をけんめいに辿っていたとき。“文学”に見捨てられた庶民大衆との、ロマンによる直結を企図したのが、古くは講談であり、新しくは大衆小説であった。
 その大衆小説の、いっぽうの旗頭としての国枝史郎が、おのれの立っている文学史的な位置について、どの程度の自負と自覚を持っていたか、はなはだしく疑問である。
(真鍋元之②)

嗚呼哀しきかな自覚なき先駆者、国枝史郎。
国枝が生み出した伝奇ロマンとはつまり日本的ロマン小説の牙城であり、青い鳥の例えのように国枝は己が信奉する道に先駆の明りを灯して歩みながら晩年までそうと自覚せずにいた。
純文学と大衆文学の融合が一つのムーブメントとなった1960年代後半から、主に戦前の、“忘れ去られた”大衆文学の再評価が試みられた。
その中でも最もセンセーショナルな反響を呼び一種ブームとなったのが、国枝史郎の伝奇小説だった。

さらに、国枝の生きた時代には、伝奇小説はもう少し広い範囲で用いられたようだ。

 これまで、晩年の国枝は伝奇的な趣向を捨てたとされてきたが、この解釈は必ずしも正しくない。伝奇小説というと、妖怪変化が出てくるような作品ーそこまで極端ではないにしても、怪奇・幻想的なモチーフを織り込んだ作品をイメージしがちだ。ただ怪奇・幻想は、伝奇小説の一面でしかない。(中略)当初は隠されていた人間関係が次第に明かされることで、物語が複雑になっていく作品(現代でいえば、昼メロや往年の大映ドラマ)は、すべて伝奇小説なのである。
 晩年の国枝は怪奇・幻想的な伝奇小説からは遠ざかったが、それは伝奇小説から離れたのではなく、いわば世話物伝奇の世界に移行しただけで、その資質はそれほど変わっていない。
(末國善己③「国枝史郎歴史小説傑作集」解説)

それとともに、国枝自身も独自の創作理念を持っていたようだ。

 国枝は破天荒な伝奇小説を数多く残しているが、スーパーナチュラルな要素のある作品は決して多くない。それは「荒唐無稽を狙っていては、新幽霊談は作れない。尋常な理詰めを心掛けた時に、新幽霊談は創造出来る」と考えていたかもしれない。
(「妖異むだ話」『探偵趣味』1928年3月)

こうした理念を前提として考えれば、国枝の伝奇小説は、講談や立川文庫を範としながら、伝奇本来の性格というべき怪力乱神譚を、あえて語らないことに特徴があったことになる。
一方で秘められた謎が物語の進行と共に解かれてゆくことを伝奇的な要素とする定義に従えば、国枝は創作において常に伝奇性にこだわり続けたと言える。
その姿勢は探偵小説や現代ものでも同じなのだろう。
国枝の小説のもつ伝奇性について、末國善己はこう評価している。

(前略)国枝が伝奇性を排した歴史小説に向かうのではなく、あくまで伝奇小説の世界に留まろうとしたことの意義は大きい。それは多くの日本人が“健全”と“健康”を求めた時代に、“不健康”で“妖しい”要素が必須の伝奇小説がどのように変質したかを知ることができるからである。伝奇小説の変容は、伝奇から歴史小説にシフトした吉川英治の変容よりも、当時の統制の厳しさを現代に伝えてくれるのではないだろうか。
(末國善己③)

 三島由紀夫も本作を「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性におどろいた。これは芸術的にも、谷崎潤一郎氏の中期の伝奇小説や怪奇小説を凌駕するものであり、現在書かれてゐる小説類と比べてみれば、その気禀の高さは比較を絶してゐる」(「小説とは何か」昭和47年三、末國善己②)

国枝の小説が懐古的な意味ではなく現代性によって高く評価されたのは、“筋の通った人物”の造形と伝奇小説にこだわった創作の方針が、時代を遥かに先取りしていたからだろう。
八木昇は昭和43年から44年にかけて起きた国枝再評価の動きを、「国枝はその死後四半世紀を経て真の知己を多く得た」と評している。
このこと自体がロマンではないかと思う。
国枝作品が約百年を経た今も
読み継がれる理由は、この辺にあるのだろう。


※末國善己編『国枝史郎伝奇短編小説集成第一巻』収録「五右衛門と新左」解説にはこうある。
 大阪に住んでいた頃の国枝は、立川文庫を書いた二代目玉田玉秀斎の孫・池田蘭子と親交を持っていたことがわかっている。