国枝史郎⑦


伝奇作家国枝史郎と、簡単にくくられるが、国枝の伝奇小説はどう評価されているのか、改めてまとめてみる。

 国枝史郎は「立川文庫」と大衆文学との間をつなぐ“書き手”だ。庶民的な話芸伝統を摂取しながら、新時代に即応した新しい大衆文学の分野をひらいた。彼がこころみた伝奇ロマンは構想力ゆたかなものであり、それは身辺雑事てきな私小説的土壌とはことなり、むしろ近世以来のロマンの法燈を継いだものだといえる。
 外国の伝奇小説はロマン・ピカレスクの流れを汲むものだが、国枝史郎はそれをおどろおどろしい日本の風土に根づくものとして花ひらかせた。それは大正期ロマンチシズムと耽美主義のひとつのあらわれであると同時に、明治以後の近代文学が見落しがちだった庶民的ロマンの鉱脈にたつもので、そこに彼の存在理由があるのではなかろうか。
 白井喬二は大正の末年に発表した「新選組」を、ことさら〈新講談〉と名づけた。彼の意図は講談のもつ大衆性をとりこみながら、その前近代性を切り捨て、新興文学としての新しいジャンルをひらこうとするところにあった。それは閉鎖的な文壇文学にもあきたらず、だからといって昔ながらのモラルにしばられている講談にも組することのできない、新時代の読者の要求にこたえる内部と形式だったが、・・・
(尾崎秀樹①講談社「神秘昆虫館」解説)

「立川文庫」の名何度も聞いたことはあったが詳しくは知らなかったので、軽く調べてみた。

 1911年から約 10年間,大阪市博労町の立川文明堂から出版された書き講談の叢書。初めは旅回りの講談師玉田玉秀斎の口演を速記したものであったが,のちには創作講談を書きおろすようになった。
(ブリタニカ国際大百科辞典)

まとめると「立川文庫」とは、書き講談から創作講談を生んだ講談近代化の先駆的存在であり、それゆえ大衆文学運動を生み出す母体となったと言ってよいのだろう。
つまりここでは、大衆文学の基盤が、構想(物語の骨格や世界観)にしても読者層にしても、講談にあったことが明確に述べられている。
なお国枝史郎について「立川文庫を文学化したような」とは、同業の作家土師清二の評(真鍋元之①、②桃源社「完本蔦葛木曽桟」解説)だが、これが日本文学史における国枝史郎の位置づけを示すものとなっている。

つまり講談などの庶民的話芸伝統を大正期に花開いた日本のロマンティシズムや耽美主義によって、近代的な文学ジャンルとしての伝奇小説に仕立て上げたのが国枝史郎だったということだろう。
ロマンティシズムや耽美主義
は劇作家を本分とした国枝の志向そのものであり、国枝にその素養のあることを熟知していた大学時代の同窓生田蝶介が、国枝をして大衆文学作家の道に導いたわけだ。
その辺の事情についてまた解説から引用すると、

 雑誌の現物をみれば分かることだが、当時の『講談雑誌』はその頃の大衆読み物雑誌の通例にもれず、目次の大部分を書き講談(講釈師の口演を速記に取ったもの)と落語でうずめていて、小説は白井喬二氏の「神変呉越草紙」と「蔦葛」の二本にすぎなかった。が「その二本ともえらく読者によろこばれて、雑誌は月毎に増刷八版という活況を見せていた。読者に受けさえすれば言うことはない、いつまででも続けろつづけろということで、とうとう五年間におよんだ」(生田氏談)
(真鍋元之②)

大衆文学運動の黎明期とはつまり、需要に追いつくだけの作品の供給がなく書けば売れる状況があった。
どうしてそんな風に需要が高まって来たのか。

 私小説化を加速させていた純文学にも、従来のパターン化された講談にも違和感を持っていた中間所得者層(大学を卒業して、月極めで給料を貰うホワイトカラー)。
(国枝史郎「神州纐纈城」講談社大衆文学館の末國善己による解説「人と作品」)

こういう新しい読者層が大量に発生し、欲求を満たす作品を渇望していた時代だった。新しい読者が新しい才能を求め、これを感じとった生田のような編集者が、新人に才能を開花させる機会をどんどんと与えていた。
伝奇作家国枝史郎はこうして世に送り出されたわけだ。