国枝史郎⑥
国枝史郎の名を日本文学史上刻み込む役割を果たした大衆文学運動について、もう少し詳しく見てみる。
1920年代半ば、第一次世界大戦後の好景気がもたらした大量消費社会と、大正デモクラシーに代表される社会運動の隆盛などを背景にして勃興した「大衆文芸」運動は、白井喬二、国枝史郎、直木三十五など、ロマン豊かな伝奇小説作家の活躍で隆盛を迎える。(末國善己③「国枝史郎 歴史小説傑作集」解説)
短い文章だが、こうした「運動」の起きた背景が、前よりよく分かる。
そしてこの「運動」の中心が、少なくとも最初はロマンと伝奇小説であったことも分かる。
大衆文学運動なのか「大衆文芸」運動なのかはさして重要ではないだろうが、あえて「大衆文芸」運動と言う場合、その理由は次の具体的な活動に根ざしているだろう。
翌14年・・・、大衆文学の社交機関《二十一日会》が白井喬二の提唱によって結成され、国枝も参加。大衆文学の隆盛とともに、国枝もまさに第二次黄金時代を迎えたのである。(中略)
大正15年1月、《二十一日会》が発展し雑誌「大衆文芸」創刊に至る。この「大衆文芸」誌上での活躍が、国枝の最後の華となる。
(末國善己④講談社大衆文学館「神州纐纈城」(国枝史郎)人と作品)
大正15(昭和元年)1月、国枝史郎をふくむ11名の大衆作家を同人として、雑誌「大衆文芸」の発刊を見た。(中略)
雑誌「大衆文芸」は第ニ巻第七号をもって閉刊したが、同人相互間の交情はなおも存続して、昭和2年(1927)11月には耽奇社の誕生を見た。
(真鍋元之①桃源社『神州纐纈城』解説)
大正末、隆盛期を迎えた大衆文学運動の中心にあったのが同人雑誌『大衆文芸』であり、伝奇作家・国枝史郎はその中心的な同人として活躍した。
そしてこの時期が、国枝にとっても小説家としての黄金期となった。
わが世の春を迎えたかと見えた大衆文学界だったが、程なく転機が訪れる。
だが1930年代に入ると、満州事変(1931)や上海事変などが起こり、日本が本格的な戦争の時代に突入すると、エロ・グロを基調とする伝奇小説はすたれ、吉川英治「宮本武蔵」(「朝日新聞」1935年8月〜1939年7月)のように健全な読み物が大衆の心を掴むようになる。この時代、伝奇小説を得意とした国枝は、出版界からも忘れ去られ、1943年に失意の中で亡くなったというのが定説になっていた。
(末國善己③)
国枝史郎に関するこの定説は、末國氏らの努力によって現在は覆されている。
実際には、国枝史郎はその後も流行作家として活躍し、亡くなるまで多様な作品を書き続けていた。
とはいえ国枝についても大衆文学についても、こうした傾向があったのは間違いない。
1929年9月4日に始まった米株式の暴落(ブラックチューズデイ)を端緒として世界恐慌が始まり、先進大国がブロック経済によって自己防衛に走ったことで、切り捨てられた弱小国の間に全体主義が蔓延して行く。
文字どおり、俄に暗雲かき曇るかのように、世界は戦争の影に覆われた。
そんな時代背景の中で、民衆は重苦しい現実に食傷したところに、政治批判に目を光らせる官憲の圧力が加わってきていた。
同じことを、別の解説により視点を変えて見てみる。
大正末、大衆文学の勃興と共に誕生した諸家の作品群は、創成期の若々しさと、未熟なみずみずしさを内包していた。白井喬二「白電太郎の館」、吉川英治「江戸三国史」、流山龍太郎(大佛次郎)「神風剣侠陣」、三上於菟吉「伝奇打日月双紙」ーー等いずれも情念の書というべきものであった。
然し昭和期に入るに従い、大衆文学は技工的には長足の進歩を示すも、若さの魅力は次第にこれを失っていった。国枝史郎に限っていえば、恐らくは昭和2年の「剣侠受難」を契機として通俗の筆を走らせることになる。文体も初期の鬱屈性を脱しようと意図するようになる。(中略)
余談になるが、この「猫の蚤とり武士」という作品は「あさひの鎧」という作品と共にその題名が、最近※国枝夫人の脳裏より忽然と甦ったのだ。この二長編は「血煙天明陣」「江戸千夜一夜」と共に、昭和10年前後の“国枝復活”の所産であって(国枝は“娘煙術師”以降不振であったのだ)従来大衆文学研究者の誰もが言及していないから新発見といってよいであろう。
(八木昇②桃源社「八ケ嶽の魔神」解説※昭和45年4月)
末國氏と同じように大衆文学の変容と停滞を認めながら、その理由について八木氏は、社会的な背景よりも文学としての成熟に求めている。
国枝自身は、デビュー以来ずっと髷物作品を通俗物と意識していたから、昭和2年以降はそこからさらに一段と通俗的な作風への転換を試みたということになるだろう。
饒舌体と呼ばれるような説明的叙述が過剰となる傾向は読んでいて確かに感じた。
むしろ読みにくく分かり難くなっているが、読者層を広げるための作者なりの試行錯誤の表れということだろう。
国枝史郎はいわゆる純文学と大衆文学とを分けて、次のように評している。
問「大衆文芸と純文芸、どこに相違点があるのでしょう?」
答「純文芸は叱る文芸、大衆文芸は叱らない文芸。ざっとこんなように別れましょうかね」(中略)
答「では語を変えて云いましょう。世間の嗜好を顧慮せずに、書いたものが純文芸で、その反対が大衆文芸です」
(中略)
答「まず嗜好に投ずるのです。それから作者の思う所を、ジワジワと世間に伝えるのです。ーー面白可笑しく読ませながら、思う所を伝えるのです」
(「大衆文芸問題」『新小説』1926年4月)
さらに、大衆文学最大の精華とでも言うべき中里介山「大菩薩峠」を評して、こういうことを述べる。
(前略)実に素晴らしい作である。大デュマなんか飛び越している。だがユーゴーを持って来るのは、まだ少し早いかも知れない。机龍之介の性格描写は、前古未曾有といっていい、筋の通った登場人物が、廿人ぐらいはあるだろうが、それぞれクッキリと描き分けた手際は、将に巨匠といっていい。(中略)
大方の現今の大衆物は、英雄崇拝熱から醒めていない。強い人間は無暗に強く、弱い人間は矢鱈に弱く、悪い人間は何処までも悪く、善い人間は最後まで善い、こんな塩梅に書かれている。講談式であり草双紙式である。本当の人間は書かれていない。・・
(「探偵物寸観」名古屋新聞1926年1月6日)
もともと講談や草双紙から、世界や人物、物語の骨格を借りながら、人物の造形(キャラクター)をより人間的、個性的に深めてゆき、作話の技術を高めていったのが大衆文学だった。
国枝はとりわけ、“筋の通った登場人物“、“本当の人間”を描くことを重視したのであり、それは純文学の関心と本質的同じだろう。
こうしてみると、国枝の作風の転換は、探偵小説における耽奇社の試みと同様に、盟友生田蝶介の博文館退社後に国枝の心中に芽生えた創作上の悩みとその解消のための必死の取り組みだったのではないか。
その取り組みが実を結ぶよりも先に、社会情勢の大きな変化が、国枝の創作には不利に働いたと思われる。
国枝自身の検閲の被害はさしたるものでは無かったようだが、耽奇社で創作を共にした江戸川乱歩の「芋虫」が絶版の憂き目を見たのは昭和4年のことで、戦争とこれを笠に着た時局という闇は国枝の目の前に迫っていた。
その結果として昭和4年から10年ごろ(1929〜1935)まで、国枝は長い低迷を見ることになった。
昭和10年前後の復活の要因などは別途検討するものとして、その復活もやはり長くは続かなかった。