国枝史郎③
国枝史郎は、まず若くして詩作と劇作に才能を開花させた。
まだ早稲田在学中の明治43年(1910)、22才で詩集を自費出版し注目を浴びると、翌年からは気鋭の劇作家として活動した。
しかし残念なことに、程なく史郎は舞台で知り合った曰くつきの女優と深い中になり、劇作どころではなくなってしまう。
周囲の忠告に耳を貸さず、この女優との関係をこじらせた末に、ほかに複数の女性とも爛れた情交を結ぶにいたった。
トラブルに継ぐトラブルは、優柔不断な彼の性格のせいだと、本人も自覚していた。
のちに史郎は「恋愛懺悔録」と題したエッセイに、自虐とともにこの顛末を綴っている(昭和7年『婦人公論』)。
そんな不行跡がたたり、大学を中退した史郎は、追われるようにして東京を離れ、大阪の朝日新聞社に職を得た。
それが大正3年(1914)のことである。
大正のある時代に、私は大阪に住んでいた。
或る新聞の記者であった。最もヤクザナ記者であった。
記者の生活は愉快であった。一層愉快なのは、社以外で遊ぶ事であった。
灘を控えた大阪は、何より酒が旨かった。
女の可いのは云う迄も無かった。
で、ふんだんに遊んだものである。
(「道真と時平」『大衆文芸』大正15年3月)
新聞社といっても文芸部で、
名の知れた在阪の女流歌人たちと交流し、名士気分に浸ってそれなりに愉快にやっていたようだ。
ところがここでも、史郎は女のために躓いてしまう。
その中私は或る娘に、ひどく興味を持つようになった。
清浄な感のする娘であった。
彼女は大変肥えていた。しかし夫れでいて姿が可かった。
(中略)
彼女は相当可い歌を作った。
つまり彼女は町娘で、そうして可愛らしい芸術家なのであった。で私は歌会の席で、彼女と知己になったのである。
(同上)
本気の恋、というのか今度は打って変わって清浄な町娘との純愛である。
史郎は、「郡上の八幡」(昭和2年)ではドン・ファンを自認したが、「蜜蜂」(同上)でも、こんなふうに過去の自分を賛美している。
だが過去には栄光があった。タキシードを着た俺の後から、女優、貴婦人、令嬢が、扈従して来たという栄光がね、二十一から二十八迄の間に。
まだ20代の若さだから、こう浮かれるのもし方ない。とにかく女にもてた史郎だが、恋人(作中ではY)の前では、この体たらくだ。
しかし私は不満であった。
恋が進行しないからであった。
それこそ本当に私達は、指一本触れ合わなかった。
媾引!それはノベツした。
なんという厳格な媾引だったろう!
もし今の私なら、恋より先に体を征服し、そうして恋が醸される頃には、女のことなんか忘れるだろう。だか然ういう今日にありては、よくしたもので恋人が出来ない。
(「道真と時平」)
しかし、史郎の初な恋は実ることなく、結局ひどいふられ方をした。
ふられたのが天神祭の夜だったから、天神様ー菅原道真には敬意が払えなくなった、というのが、タイトルにつながっている。
この話の前半では、太宰府に左遷された後の道真が、世間が思うより愉快にやっていた、という私見が披露されている。
大阪へ都落ちした自分を道真にたとえたに違いない。しかし本題は別にあるようなので、ここではこれぐらいにしておこう。
ところで史郎は、「郡上の八幡」でも、本命の芸者を前に、ただ翻弄されるばかりで手も出せないでいた。
病のせい、もあったろうが、どうもあまり恋愛上手とは言えそうにない。
なお文中では24才とあるが、史郎の在阪は27才から33才の間のこと。
栄光の時代が終わったのは28才だというから、手痛い失恋は在阪2年目のことだろう。
この失恋のせいか、それとも記者では飽き足りなかったのか、2年後の大正6年に史郎は朝日新聞社を退社した。
それから松竹の脚本部に入って、座付作家となった。
その傍らで自ら雑誌や小劇場を経営するなど、史郎は劇作家こそ本分と心に決めており、これは大衆小説作家となった後までずっと続く。
ストイックな天職に打ち込む生活も長くは続かず、大正9年(1920)に史郎は大病を病んで、松竹を退社せざるを得なくなった。
療養のために故郷の茅野に帰った史郎は、そこで医師である次兄からバセドー病の診断を下された。
糖尿病と神経衰弱をも併発し、痔疾まで患ったというから深刻である。
ウェブ情報だけで気がひけるが、バセドー病の発症には、主に次のような理由が考えられらるしい。
・遺伝的なもの(女性に多い)
・ヨードの過剰摂取(欧米人に多い)
・過度の飲酒、喫煙
・極度のストレス
史郎がバセドー病になった原因がなんだったか分かりようがないが、下の二つの複合によるのだろう。
飲酒量は多かったに違いないにせよ、ストレスの原因は、さて何だったのか。
過去の失恋か、新しい(語られざる)恋か。それとも仕事の行きづまりなのか。
今後の課題としたい。
さて、この業病は眼球突出という顕著な特徴があり、ドン・ファンを自認していた史郎には、外見の変貌が何より心にこたえただろう。
自棄になった史郎は、近在の上諏訪の街へ繰り出して、そこでまたも運命の女とめぐりあってしまう。
重度のアルコール中毒とモルヒネ中毒によって死病にかかり、幽霊のように見える美貌の芸者金龍。
どこか現実感のないこの芸者との、生きるの死ぬのというすったもんだもまた、「恋愛懺悔録」の中でつぶさに語られている。
翌くる大正10年(1921)、史郎が木曽福島に移ったのは、この女との切るに切れないしがらみから逃れる為だったかも知れない。
なお、「恋愛懺悔録」や大阪時代の交遊関係については、末國善己がエッセイに概略をまとめたものが、以下で読めるので詳しくはこちらを読んでほしい。
https://books.google.co.jp/books?id=SVUkDwAAQBAJ&pg=PT8&lpg=PT8&dq
『夜の日本史』「伝奇作家の小説より奇なり女性遍歴」と
国枝史郎は、まず若くして詩作と劇作に才能を開花させた。
まだ早稲田在学中の明治43年(1910)、22才で詩集を自費出版し注目を浴びると、翌年からは気鋭の劇作家として活動した。
しかし残念なことに、程なく史郎は舞台で知り合った曰くつきの女優と深い中になり、劇作どころではなくなってしまう。
周囲の忠告に耳を貸さず、この女優との関係をこじらせた末に、ほかに複数の女性とも爛れた情交を結ぶにいたった。
トラブルに継ぐトラブルは、優柔不断な彼の性格のせいだと、本人も自覚していた。
のちに史郎は「恋愛懺悔録」と題したエッセイに、自虐とともにこの顛末を綴っている(昭和7年『婦人公論』)。
そんな不行跡がたたり、大学を中退した史郎は、追われるようにして東京を離れ、大阪の朝日新聞社に職を得た。
それが大正3年(1914)のことである。
大正のある時代に、私は大阪に住んでいた。
或る新聞の記者であった。最もヤクザナ記者であった。
記者の生活は愉快であった。一層愉快なのは、社以外で遊ぶ事であった。
灘を控えた大阪は、何より酒が旨かった。
女の可いのは云う迄も無かった。
で、ふんだんに遊んだものである。
(「道真と時平」『大衆文芸』大正15年3月)
新聞社といっても文芸部で、
名の知れた在阪の女流歌人たちと交流し、名士気分に浸ってそれなりに愉快にやっていたようだ。
ところがここでも、史郎は女のために躓いてしまう。
その中私は或る娘に、ひどく興味を持つようになった。
清浄な感のする娘であった。
彼女は大変肥えていた。しかし夫れでいて姿が可かった。
(中略)
彼女は相当可い歌を作った。
つまり彼女は町娘で、そうして可愛らしい芸術家なのであった。で私は歌会の席で、彼女と知己になったのである。
(同上)
本気の恋、というのか今度は打って変わって清浄な町娘との純愛である。
史郎は、「郡上の八幡」(昭和2年)ではドン・ファンを自認したが、「蜜蜂」(同上)でも、こんなふうに過去の自分を賛美している。
だが過去には栄光があった。タキシードを着た俺の後から、女優、貴婦人、令嬢が、扈従して来たという栄光がね、二十一から二十八迄の間に。
まだ20代の若さだから、こう浮かれるのもし方ない。とにかく女にもてた史郎だが、恋人(作中ではY)の前では、この体たらくだ。
しかし私は不満であった。
恋が進行しないからであった。
それこそ本当に私達は、指一本触れ合わなかった。
媾引!それはノベツした。
なんという厳格な媾引だったろう!
もし今の私なら、恋より先に体を征服し、そうして恋が醸される頃には、女のことなんか忘れるだろう。だか然ういう今日にありては、よくしたもので恋人が出来ない。
(「道真と時平」)
しかし、史郎の初な恋は実ることなく、結局ひどいふられ方をした。
ふられたのが天神祭の夜だったから、天神様ー菅原道真には敬意が払えなくなった、というのが、タイトルにつながっている。
この話の前半では、太宰府に左遷された後の道真が、世間が思うより愉快にやっていた、という私見が披露されている。
大阪へ都落ちした自分を道真にたとえたに違いない。しかし本題は別にあるようなので、ここではこれぐらいにしておこう。
ところで史郎は、「郡上の八幡」でも、本命の芸者を前に、ただ翻弄されるばかりで手も出せないでいた。
病のせい、もあったろうが、どうもあまり恋愛上手とは言えそうにない。
なお文中では24才とあるが、史郎の在阪は27才から33才の間のこと。
栄光の時代が終わったのは28才だというから、手痛い失恋は在阪2年目のことだろう。
この失恋のせいか、それとも記者では飽き足りなかったのか、2年後の大正6年に史郎は朝日新聞社を退社した。
それから松竹の脚本部に入って、座付作家となった。
その傍らで自ら雑誌や小劇場を経営するなど、史郎は劇作家こそ本分と心に決めており、これは大衆小説作家となった後までずっと続く。
ストイックな天職に打ち込む生活も長くは続かず、大正9年(1920)に史郎は大病を病んで、松竹を退社せざるを得なくなった。
療養のために故郷の茅野に帰った史郎は、そこで医師である次兄からバセドー病の診断を下された。
糖尿病と神経衰弱をも併発し、痔疾まで患ったというから深刻である。
ウェブ情報だけで気がひけるが、バセドー病の発症には、主に次のような理由が考えられらるしい。
・遺伝的なもの(女性に多い)
・ヨードの過剰摂取(欧米人に多い)
・過度の飲酒、喫煙
・極度のストレス
史郎がバセドー病になった原因がなんだったか分かりようがないが、下の二つの複合によるのだろう。
飲酒量は多かったに違いないにせよ、ストレスの原因は、さて何だったのか。
過去の失恋か、新しい(語られざる)恋か。それとも仕事の行きづまりなのか。
今後の課題としたい。
さて、この業病は眼球突出という顕著な特徴があり、ドン・ファンを自認していた史郎には、外見の変貌が何より心にこたえただろう。
自棄になった史郎は、近在の上諏訪の街へ繰り出して、そこでまたも運命の女とめぐりあってしまう。
重度のアルコール中毒とモルヒネ中毒によって死病にかかり、幽霊のように見える美貌の芸者金龍。
どこか現実感のないこの芸者との、生きるの死ぬのというすったもんだもまた、「恋愛懺悔録」の中でつぶさに語られている。
翌くる大正10年(1921)、史郎が木曽福島に移ったのは、この女との切るに切れないしがらみから逃れる為だったかも知れない。
なお、「恋愛懺悔録」や大阪時代の交遊関係については、末國善己がエッセイに概略をまとめたものが、以下で読めるので詳しくはこちらを読んでほしい。
https://books.google.co.jp/books?id=SVUkDwAAQBAJ&pg=PT8&lpg=PT8&dq
『夜の日本史』「伝奇作家の小説より奇なり女性遍歴」と