国枝史郎④


国枝史郎が木曽福島に移った大正10年中のこと。
大学時代の友人で、文芸誌の編集長となっていた生田蝶介から、史郎に手紙が届いた。
小説を書け、お前なら書けるという趣旨だったらしく、これをきっかけに、史郎は小説に手を染める。
蝶介がいた博文館は、折から盛り上がりを見せつつあった大衆文学運動を、講談社とともに牽引していた最右翼の出版社だった。
需要はあるが書き手がおらず供給が追いつかない。
衆望に応え、ライバルに競り勝つに足る書き手が、喉から手が出るほどにほしい!
そんな状況下に、蝶介は同窓の史郎の苦境を知って天意を感じたかも知れない。
かつて二人は、作家小川未明が作ったネオロマンティスムの研究団体《青鳥会》に属し、ともにその薫陶を受けた仲だった。
未明については史郎との関係以上のことを知らないが、自然主義全盛の時代にロマン主義の孤塁を守った作家であったという。
それ故、蝶介は早くから史郎の大衆文学における才能に目をつけていたのだろう。

大衆文学は、史郎の望む分野では無かったが、いざ小説が雑誌に載ると、木曽のような山深い土地にもその名が知れわたった。
にわかに文人名士の扱いを受けるようになった史郎は、悪い気はしなかったようだ。
病のために傷けられた自尊心もわずかながら癒やされたのだろう。
史郎は蝶介に褒めそやされ、励まされて、大衆文学の筆を奔らせるようになる。
結果として、蝶介の直感が正しかったことは、史郎の活躍によって証明される。

ところで、史郎が後に妻となる市川すゑと出会ったのは、どこだろう?
「郡上の八幡」では、詳しい事情は語られないが、木曽福島に滞在中のことに違いないと思う。
二人の出会いは単なる偶然だったのかもしれない。
しかし、雑誌の愛読者だったすゑが、史郎の福島滞在を知って、わざわざ訪ねて行ったのかも知れない。
それぐらいのことをしそうな女性ではある。

それから史郎は岐阜県の中津川に移った。大正11年の5月頃のことだ。
転居の理由は明らかではないが、私にとって最も気になることなので、今後の課題にしたい。
そこで初めての髷物「蔦葛木曽桟」を手がけると、これが見事に大当たりを取ったことで、史郎は大衆文学黎明期における最高の人気作家のひとりとなった。
その後の史郎が、すゑとの恋愛、同棲、結婚、名古屋転居と並行して、驚くほどの多作ぶりを発揮したことは、これまでに書いた文章に引用したとおりだ。

類いまれな史郎の想像力と速筆については、こんな伝説があるそうだ。

 国枝史郎をめぐる伝説の一つに、奔放で大胆な構成をとる作品バセドー氏病のためであるとする説がある。この説には賛否両論があり、実際にバセドー病が想像力を助長するという医学的根拠があるかどうかも分からないが、国枝自身は病気のためと考えていたようである。国枝は「銀三十枚」(『新青年』大正十五.三〜五)という小説にバセドー病の男を登場させ、次の に言わせている。

 私は私の病気を祝福したいやうな時もあった。
「空想」が奔馳して来るからであつた。 本来私といふ人間は、空想的人間であつた。
 空想には不自由しなかった。それが病気になつて以来、その量が一層増したらしい。
 空で行はれてゐるエーテルの建築!それを破壊する電子の群!そんなものが私には「見える」のであつた。

 これが国枝の本音か、持ち前の洒落っ気と韜晦趣味によるものかは、各人の判断に任せるしかないが、・・・・
(講談社大衆文学館・国枝史郎「人と作品」末國善巳)


さて、そんな風に史郎が一心不乱に創作に打ち込んでいた大正12年(1923)のこと。
日露戦争後におとずれた束の間の安寧にまどろんでいた日本人は、大地の怒りに不意打ちされ目を覚まされる。
9月1日、関東地方を直下型の巨大地震が見舞った。
190万人が罹災し、10万人以上が死亡または行方不明となったこの地震は、遠く離れた中津川でもただならぬ揺れを感じたに違いない。
当地に被害はなかっただろうが、未曾有の災害の惨禍が伝えられるとともに、史郎には予期せぬ影響が及んだ。
この震災直後に、史郎は中津川を出て、名古屋に移る破目になった。

震災で雑誌社が潰れたのである。
原稿の買手が無いのである。
(「蜜蜂」大正15年)

いう通り、最初の探偵小説「沙漠の古都」を連載していた博文館の『新趣味』(編集長は生田蝶介)が大正12年の11月をもって廃刊となった。
直接の関係は分からないが、「沙漠の古都」は10月号で、中絶している。
似たようなことが他にもあったらしく、生活に窮した史郎は就職活動までしたという。
史郎はその為に名古屋に移ったのだろうか?

博文館では『講談雑誌』(編集長は生田蝶介)は存続しており、「蔦葛木曽桟」の連載は続いていた。
そこまで切迫していたのかは、何とも言い難い。
そこで名古屋移住について、別の理由も考えてみたい。
まず「蜜蜂」には、こういうことが書かれている。

 全くその頃の私ときては、明日にも葬式をされそうな程に、衰弱をしていたのである。
 眼球突出、指頭戦慄、発汗、吃音、痔、ヒョロヒョロ。(足許の定まらない形容詞である)
 だが精神は引き締まっていた。
「今に見ていろ、天下を取ってみせる」

 愛知医大の附属病院ーー普通に大学病院という。ーーこれは私の恩人だ。
 特にそこにあるレントゲンが。
 そいつを放射して貰うことによって、どうやらバセドー氏病が抑えられた。

どうやらバセドー病の症状が悪化し、専門治療を受ける必要があったようだ。
貧窮し、就職活動をしたのも単に震災で収入が減ったというだけでなく、恒常的にかかる治療費と、波の多い作家業とに不安を感じたのかも知れない。
そもそも史郎の症状が悪化したのは何故か。
異常なほどの多作から来る疲労か?
震災への不安からくるストレスか。
それとも近しい人の訃報に接したことか。
というのも、先にあげた芸者金龍は、史郎と別れた後、一人で東京に帰り、関東大震災で焼死したらしい。
(末國善巳『夜の日本史』より)
金龍の死が、史郎にとってどれだけの意味があったかは、何とも言えない。
前にも書いたが、探偵作家としての史郎は先人でたる小酒井不木に傾倒していた。
震災があろうと無かろうと、不木に接近するため、史郎は名古屋移住を決めていたのかも知れない。


さて、そんな史郎の全盛期は短かった。
大正15年(昭和元年、1926)は、「国枝にとって疲れの出た時期」(八木昇「八ケ嶽の魔神」解説)であり、「この年の5月から10月にかけて、三大長編の連載が次々と終了していくのと時を同じくして、国枝の執筆活動も下降線をたどる。」(末國前掲)
その理由は様々に取りざたされているが、

夏には心臓の発作に襲われている(八木昇前掲)

というから、病状の悪化のためというのが、真相に近いようだ。
しかし『完本蔦葛木曽桟』の真鍋元之による解説では、別の説を立てている。
真鍋氏は、『講談雑誌』の編集長だった生田蝶介がこの年の3月頃に博文館を退社したことを重視した。
これはあくまでも「蔦葛」を未完のまま中絶させた理由の追求だったが、史郎にとって大衆文学創作上の盟友とも言える生田蝶介の存在感を思えば、全体に関わる問題だと考えてよいだろう。
ただし、「蔦葛」中絶と生田氏の博文館退社の関係については、生田氏自身も、末子(すゑ)未亡人も否定的だという。
私としては、同じ大正15年に発表された「道真と時平」の
結びが気になっている。

 爾来私は天神様に対して、敬意を払うことができなくなった。
 と云って時平に対しても、好意を寄せることができなかった。
 もし私が時平なら、略奪結婚の蛮勇を揮って、彼女を征服しただろう。
 私は平貞文なのであった。
 一番貞文が近かった。
 貞文が醜男であるように、私もひどい醜男なのである。
 貞文が失恋をしたように、私も失恋をしたのである。
 尤も貞文と異う所もあった。貞文は其後別嬪を貰い、菅公の霊にも蹴殺されず、出世して愉快な日を送った。
 私はー少くも心持に於てはー将しく今も独身である。

この話の前半について補足すると、右大臣菅原道真のライバルは言うまでもなく、左大臣藤原時平だ。
その時平には、同族の長老格であった大納言藤原国経が手に入れた若妻を奪ったという有名な逸話がある。
平貞文は同時代の歌人で通称を平中という。
在五中将こと在原業平と並び称されるほどの色好みの通人だった。
時平が奪った国経の若妻について、この平中も狙っていたが、時平のために思いを遂げられなかったという。
この平中が醜男だ、と史郎はいうのだが、色好みという定評と合致しない。

それ以上に、なにゆえ史郎が「心持に於ては将しく今も独身である」などと書いたのか、それが気になっている。
愛妻家の史郎だけに、そんな筈はないからだ。
その史郎が、色好みの平中を醜男と呼び、その平中こそ自分に最も近いといった。
史郎はやはり、生田蝶介が博文館を辞めたことで大いに動揺したのではないか。
蝶介は、もともと歌人を志した人だが、一時的に雑誌社に入って大衆文学の興隆に力を尽くしてきた。
博文館退社後の蝶介は、自らの本分である歌人として歩み始める。
その決断を見て、自分はどうするのかと史郎が自問自答した、一つの答えがこの作品に現れているのではなかろうか。
菅原道真は学者から大臣の地位にのぼり、その為に陰謀の犠牲となって左遷された。
道真の死後、彼を天神として祭り、学問の神としたのは後に残された人間たちの勝手な都合であった。
何がどうという具体的な指摘はできないが、当時の史郎の揺れる心情がこの作品には込められているように思う。

なお博文館退社から数年後、今度は史郎に励まされた蝶介が、史郎と同じく伝奇小説に手を染める。
その島原大秘録三部作は残念ながら未読だが、山田風太郎の「魔界転生」につながる怪作という定評画ある。
いつか読まねばならない、とは思っている。