国枝史郎①


国枝史郎の経歴については、これまで講談社大衆文学舘『神州纐纈城』等に収録された末國善己による解説「人と作品」を主に参照してきた。

末國氏は国枝史郎の第三次ブームをほぼ一人で支えてきた功労者で、21世紀のいま国枝史郎の著作のほとんどを書籍で読むことが出来るのも、氏のおかげと言える。

しかし今回、第一次ブーム期の解説に目を通していて末國氏の解説に、些細なことだが私にとっては大事な点で誤りがあった。

それは国枝史郎の出世作で、最初の長編伝奇小説である「蔦葛木曽桟」執筆に関わることだから、まったく無意味とも言えない。


この間の経過について「人と作品」にはこうある。

(前略)
国枝は大正9年にバセドー氏病を患い、松竹座を退き、茅野の実家で療養生活をおくることになる。

大正10年には知人を介して長野県木曽福島に転居、ここで「講談倶楽部」「講談雑誌」「少年倶楽部」などの大衆文芸誌に執筆を開始、この年から大衆文学に筆を染めることになる。
(中略)
大正11年に木曽福島から岐阜県中津川市に移り、すぐ相生町に転居。ここで早稲田の同級生で〈青鳥会〉のメンバーでもあった生田蝶介の求めに応じ、9月から「講談雑誌」に連載を開始したのが、後に代表作になる「蔦葛木曽桟」(〜大正15.5)である。
(中略)
「蔦葛木曽桟」以降の国枝は、まさに八面六臂の活躍を見せる。大正12年に市川すゑと結婚。私生活の充実をはかると、探偵小説「沙漠の古都」を『新趣味』(3〜10月)に、・・翌13年・・9月からは短編執筆に並行して、三代長編の一角をなす「八ケ嶽の魔神」の連載を『文芸倶楽部』(〜大正15.7)で開始。
(中略)
翌14年も執筆のペースは衰えず、「蔦葛木曽桟」「八ケ嶽の魔神」の連載を継続しながら、国枝の最高傑作短編「大鵬のゆくへ」(『サンデー毎日』1.11号)を書き、返す刀で最高傑作長編「神州纐纈城」(1月〜大正15.10)の連載を『苦楽』で始め(後略)


これによると岐阜県中津川市にいたのは、大正11年中のわずかな期間となり、いわゆる三大伝奇長編(「蔦葛木曽桟」「八ケ嶽の魔神」「神州纐纈城」)は相生町転居後に執筆されたことになる。

相生町とはどこか?
webで検索してみるとかつて徳島県にあった町と出た。Wikipediaにもそう書かれているが、国枝が中津川の後に名古屋周辺に長く住んでいたことは分かっており、徳島県の相生町から名古屋に移住した経過が無いのは不自然だと感じた。

そこで名古屋市内で相生町を検索して見ると、名古屋市東区に同名の町があった。
名古屋の城下町の一画にあたり市制施行の時から市内にあった歴史ある町だ。
国枝は中津川を出て名古屋市の相生町に移住したのかと、一時は考えた。


ところが、今回諸作品の解説と、国枝が物した私小説的な小編「蜜蜂」を読んで見て、どうも事実ではないと気がついた。

まず『沙漠の古都』の八木昇による解説には、『新趣味』大正12年3月号に「沙漠の古都」の連載を始めた頃のこととして、

岐阜中津川に居た国枝は、友人でもある博文館の生田蝶介氏に叱咤激励されて「蔦葛」の稿を書きついでいた。

とあった。

次いで桃源社『神州纐纈城』の真鍋元之による解説には、

最初の転地先きは木曽福島であった。木曽福島から岐阜県中津川へ。関東大震災のとし(大正12)に中津川から名古屋市へ、というふうに療養の地を転々させながら、この間に史郎は愛妻末子を得ているが、このことの経緯は、後年の昨品「郡上の八幡」(『大衆文芸』昭和2年4月号)のなかにほぼ写されている。
木曽福島に在住中のことであった。早稲田大学の同級生であり、当時は『講談雑誌』(博文館発行)の編集長でもあった生田蝶介から手紙がきて、同誌へ小説をかけという。もとめに応じて稿を起こしたのが、史郎にとって時代小説第一作、「蔦葛木曽桟」であった。

さらに六興出発版『神州纐纈城』収録の「国枝史郎略年譜」にはこう記される。

大正11年(1922)
 岐阜県中津川に転居
 9月ー大正15年5月
「蔦葛木曽桟」(講談雑誌)
大正12年(1923)
 1月 市川すゑと結婚
 3月「沙漠の古都」
 (新趣味ー10月)
 11月 名古屋に移る

決定的だったのが国枝自身による「蜜蜂」の記述。

名古屋に住んで五年になる。
震災直後に来たのである。
震災で雑誌社が潰れたのである。
原稿の買い手が無いのである。
(中略)
大阪、東京、京都、神戸、岡山、北海道、別府、諏訪、木曽福島、中津川、東北地方、にも住んだことがある。
(中略)
多少は名古屋も知っている。
知っている所だけ書いてみよう。
西菊井町(最初の住居)ひどい新開の工業地
児玉町(二度目の住居)一層ひどい新開地
西区柳町✕✕番地(現在住んでいる住居である)

関東大震災が起きたのは大正12年(1923)9月だから、国枝の名古屋移住は大正11年ではなく12年のこととなる。
 
ところが、本作の発表は昭和2年(1927)3月だと解説にある。とすると、それより5年前は1922年(大正11年)のことになって矛盾が生じる。
関東大震災後に名古屋に移ったは間違いないだろうから、4年前のことを国枝が誤って5年前と書いた、ということだろうか?
どうもまだ違和感がある。


また「蜜蜂」による限り国枝の名古屋市での初期の住居は西区ばかりで東区の相生町は見当たらない。
こののち国枝は、昭和4年(1929)4月に愛知県知多市の新舞子に新居を構えた。
「蜜蜂」の執筆から2年余がたっており、この間に東区相生町に移った可能性は無くはない。

そういえば国枝は、探偵小説の先人小酒井不木と親交が深く、しばしば互いの家を訪問して探偵小説談議に耽っていたと自ら述べている。
国枝が新居に選んだ新舞子は神戸市における舞子に倣って開発された名古屋近郊の海岸保養地だが、実は小酒井不木の別荘の隣だったという。
それほどに国枝は深く不木を敬慕していた。
 
とはいえ、不木自身は国枝の新舞子転居と前後して亡くなっており、互いの家を訪問していたのは名古屋時代のこととなる。
不木の本宅は名古屋市中区(現昭和区)御器所町字北丸屋82の4であり、西区からだとやや遠い。
東区相生町なら、西区に比べれば御器所町に近い。

これに関連することとして、国枝が「蜜蜂」と同じ昭和2年(1927)7月に発表した、「奥さんの家出」を読むと、この当時名古屋城の堀にあった小遊園地(娯楽園)が舞台として描かれいる。
それがちょっとした犬の散歩の範囲内での出来事とされているから、その頃には国枝夫妻が名古屋城の近くに転居していたことの傍証とはなる。
「蔦葛」その他の成功で余裕ができ、住みよい町に移ったとしたも不思議はない。

しかし、作中の私(国枝)は、被害妄想狂というのかノイローゼというのか、かなり心を病んでいるように描かれている。
業病に苦しめられる一方で、
周囲も驚く速筆によって多くの連載を抱えていたことの反動だろうか。
ひょっとすれば「蜜蜂」に詳しい現住所を書いてしまったが為に、要らぬトラブルをしょい込み、東区相生町に転居せざるを得なくなったのかも知れない。


しかし、これらはしょせんは傍証でしかない。
ゆえに国枝が名古屋市内で三度目の転居をしたかどうか、また東区の相生町に住んだかどうかは結局のところ分からない。

とはいえ、末國氏が「蔦葛木曽桟」の連載開始について、
「大正11年に木曽福島から岐阜県中津川市に移り、すぐ相生町に転居。ここで・・」という風に書いたことに何らか理由付けできるかどうか、考えてみた。

①「蜜蜂」の記述を誤認した場合
(本作が発表された1927年から5年前に名古屋に移住したと単純に考えた可能性)

②「蔦葛木曽桟」について、第一次ブームの初期にあった大正13年5月連載開始説に引きずられた場合。
(連載開始は直ぐ大正11年9月に訂正されたが、大正13年5月の住居である名古屋在住時に連載開始したことを両立させようとした可能性)

③(私にとって)未知の新資料に相生町居住と蔦葛執筆開始に関する記述がある場合。

等々、いろいろの可能性が考えられなくはないが、どうしても違和感は消えない。
個人的な関心事にひきずられ、なにか他、国枝が大正12年まで中津川に居ては困る事情があって、それが反映された結果ではないかと邪推してしまう。

しかし兎にも角にも、国枝が「蔦葛木曽桟」の一部なりとも中津川在住時代に執筆していたことだけは間違いない。
その冒頭筆起しが木曽福島でのことだったか中津川だったかは、解説だけではどちらとも見えて分からないので、これについては次の機会に書くことにする。