茂仁(ゆたひと)王の父・守貞親王は、高倉天皇の第三皇子
であり、安徳天皇の弟、後鳥羽天皇の兄にあたります。
安徳天皇が平家とともに落ち延びるとき、一緒に西国へ連れ
去られました。皇位から遠のいた守貞親王は、出家して持明
院宮行助(ぎょうじょ)入道親王となっていました。
「承久の乱」後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の血統を排除した
新しい院政の下で戦後処理を行うために、乱には関係なかった
行助入道親王の皇子茂仁王を迎えて即位させました(後堀河
天皇)。後堀河天皇は十歳、守貞親王(後高倉院)が院政を
しきました。
一二三二年(貞永元)御家人の権利・義務や所領の訴訟など
を成文化した最初の武家法である「御成敗式目」が制定され
交付されました。後高倉院の没後は天皇の親政となりました
が、元来病弱だったため、九条道家の娘・竴子との間に、
ようやく授かった皇子・秀仁(みつひと)親王に譲位し(四
条天皇)、その二年後に二十三歳で崩御しました。