桓武天皇が崩御すると、群臣は皇太子の安殿(あて)親王に皇位
につくよう要請しました。親王はこれを受け即位しました(平城天皇)。
平城天皇は即位と共に年号を「大同」と改めました。また、弟の
神野(かみの)親王(のちの嵯峨天皇)を皇太子に立てました。
さらに天皇は、七九四年(延暦十三)に亡くなった妃の藤原帯子
に皇后の称号を追贈しました。
八百七年(大同三)四月、天皇は参議(大臣、納言に次ぐ重職)を
廃し、新たに観察使を設置、官司の統廃合に力を注ぎました。
同年十月、桓武天皇の皇子である伊予親王が謀反の疑いをかけ
られ、母と共に川原寺に幽閉されました。しかし真相は、藤原仲也
(藤原種継の子)と妹の薬子による陰謀であり、親王は無実で
ありました。しかし伊予親王は毒を仰いで自殺しました。
八百九年(大同四)四月、平城天皇は病気を理由に皇位を皇太弟
の神野親王に譲りました。
平城天皇は詩文に長け、その詩が「古今集」などに納められて
います。