光仁天皇から皇位を譲られた皇太子の山部親王が即位しました。
(桓武天皇)。桓武天皇は新しい政治を行うために都を奈良から
山城へ遷そうと考え、七八四年(延暦三)長岡京の造営に着手し
ました。この新京の造営を推進したのが、藤原種継(たねつぐ)で
あります。しかし種継が新京の造営工事を見分しているとき、大伴
家持(おおとものやかもち)、継人(つぐひと)ら反対派に襲われ、
亡くなりました。この暗殺事件に皇太弟の早良(さわら)親王が
関係しているとされ、親王は淡路国に流され、途中で亡くなり
ました。七八七年(延暦六)皇居は完成していなかったが,天皇は
遷都しました。桓武天皇は新京へ遷りましたが、七八九年(延暦八)
十月母の高野新笠が亡くなり、翌年には皇后が崩じました。また
新たに皇太子に立てた安殿(あて)親王も病気になり、さらに疫病
も流行しました。桓武天皇は、これらが早良親王の祟りだと考え
七九四年(延暦十三)十月、新たに都を遷しました。これが平安京
であります。平安京は、途中の平清盛の福原遷都を除き、以降、
一八六九年(明治二)の東京遷都まで帝都として存続しました。
この平安京への遷都が平安時代の幕開けであります。
桓武天皇は律令制の再編・強化に務めました。人民に対しては
労役の半減や兵士の廃止を行い、農民の負担を減らしました。
桓武天皇はまた蝦夷対策にも力を注ぎました。また中国文化の
導入にも力を注ぎ最澄・空海・橘逸勢(はやなり)らを遣唐使に
随行させました。帰国後、最澄は天台宗を、空海は真言宗の開祖
となりました。橘逸勢は書家として知られます。
八〇六年(大同元)、天皇は崩御しました。