国学って凄い
父からの継承でこの花尾山の公園愛護会のお仕事を始めて20年におよびますと、自分とこの山とが同化というか、
自分か?山か?分からない感覚になる時があります。
この自分勝手な城主気分を味わえるのも、先輩方が弛まぬご努力を重ねられたお陰と思い舞うs。
が、何といっても木村孔邇翁がご自身の所領として大正時代から30数年に及んで管理されてきたお陰に間違いなく凄すぎなんです!
しかし、なんでそんなことを思いついたのか?
を探ると、とんでもない歴史観に遭遇するのです。
この木村翁は、明治22年黒崎の町に生まれ学業優秀であって、自立心高く、皇学の道も学ばれたのです。
学校を卒業すると鮮魚商につとめ、当時製鉄所の成長に合わせ人口も賑わい始めたので
持ち前のガッツと好男子ぶりで好業績を積みあげたのです。
その傍ら、幼い時からの友人であった、岡田宮の宮司のご子息であった波多野格さんと共に学んだのが国学で、その皇学心も大きな人生の方向性を左右したらしいのです。
すこい横道にそれるのですが、由緒正しい教えというのが価値ある歴史につながるのです。
この岡田宮は、古事記の冒頭の部分に出てくるほどの逸話があります。
古事記においては、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、一年間この岡田宮に滞在されたとされてます。
そんな重要な歴史観を持って聞くお話は、さぞかし面白く、学習意欲満点の木村少年には興味津々で、学ぶ国学も半端なく浸透していったのでしょう。
と言って、直接話をきたわけではないので、想像でしかありませんが、史実を読み漁ると半端なく凄すぎるのです。
この国学が、のちの頭山満翁に弟子入りするきっかけになったのですが・・・・・
いやはや、木村翁の勉強熱心さも凄いですが、それを実行に移すのも凄いし、その途中のご努力というか、出来事に一つ一つが半端ではないのです。
この頃から20歳になるまでの数年間、恐ろしいほど集中して勉学とお仕事に励んで行ったのです。
時は、日露戦争の真っ只中玄界灘、沖ノ島沖での砲撃の音が黒崎の町まで轟いてたとというのですから、今日のウクライナ状態です。
ここからの、続きは後程にして、日本人のあるべき姿を導き出した国学の力、凄まじさを感じます。





