【Side 智】
「…翔くん、恥ずいって。下ろしてよ。」
「………。」
…めっちゃ怒ってる。
お姫様抱っこされてエレベーター乗るとか、誰かに見つかったら死ぬ程恥ずかしいやつ。
しかも手が結ばれたまま服かけられてるから動けない。
何か…未だに状況が理解出来てない。
潤が何をしたかったのか。
まー君の嘘って何なのか。
そして何故翔くんが怒ってんのか。
同じようなこと、俺にずっとしてたくせに。
でも…あんな無理矢理は一度も無かった、と思う。
選択肢を与えない聞き方ばっかだったけど、今回のように痛みを感じたことはなかった。
潤の目は、憎しみとか怒りとか…すごく怖い感情で。
じゃぁ、翔くんの目はって考えると…
どこか、寂しそうで。
だからかな。
きっと必死になれば逃げられるのに、結局言うことを聞いてしまうのは。
そんなことを考えていると、誰にも会わずに翔くんの部屋についた。
膝で俺の身体を支え片手でドアを開ける。
変なの。
自分の家より、こっちの部屋のが今は落ち着く。
潤には何をされるかわからない不安があったけど
翔くんには、もう慣れてしまった。
悪い意味で、だけど。
ストンと降ろされたのは昨日括り付けられたベッドだ。
それでも恐怖がないのは、翔くんが腕の自由を奪っていたネクタイを取り、スっと離れてコーヒーを持ってきてくれたから。
無言で差し出され、それを受け取る。
いつの間にか俺用に買い足された、夜の闇のような、濃い紺色のマグカップだ。
まるで俺がいるこの状況のよう。
もがいても誰にも見つからない。
光なんて、ない。
朝なんて…絶対に来ない。
そんな…暗い、青。
フーフーと冷ましてマグカップに口をつけると、苦くはなく蜂蜜が入っていることに気付く。
…これも優しさ、のつもりかよ?
「…俺を傷付けるようなら許さないって…自分のことは棚上げなわけ?」
さっきから気になってたことを聞く。
あのセリフ、何なんだよ。
「…そうだよ。悪い?」
自分の分は用意しなかったらしく、翔くんは少し離れてベッドに座った。
少しだけ翔くんのいる右側に沈むスプリング。
「智を傷付けていいのは俺だけ。智に触っていいのも、泣かせていいのも、全部俺だけなんだよ。」
翔くんは俺の方を見ず、まっすぐ正面を向いて言った。
「…んだよ、それ。」
めちゃくちゃだろ。
と付け足してまたコーヒーに口をつける。
「そうだよ。めちゃくちゃだよ。俺はワガママなんだよ。頭もおかしい。だから…頼むから他の奴に触らせんな。もう…二度と俺以外と二人きりになんな。」
いつもの強いバカにしたような口調じゃなくて、どこか切ない悲痛な声で呟く翔くんは…
何だか小さい子のようで。
「…そんなん、無理だろ。普通に。」
生活してたら誰かしらに触れる。
潤とだって。
家族なんだから…
そこまで考えて、翔くんは家族と触れ合うどころか会ってもいないことに気付く。
翔くんは、誰とも触れ合わずに来たのかな。
社長夫人も…小さい頃から翔くんを敬遠してた。
大事にしてるように見えて、全然翔くんのことを見てない印象。
俺ら友達が…
いや、俺が。
もっと、ちゃんと翔くんの心の隙間を埋めてあげてれば。
翔くんはこんな風に、誰かを縛りつけようとすることもなかったのかな。
自分がおかしいと気付きながら、それでもそれをしてしまうのってどれだけ辛いことなんだろう。
俺には想像もつかないけど。
ブー、ブーとバイブ音。
ポケットから携帯を出して表示を見ると、和からで。
「…ごちそうさま。」
残りを一気に飲み干し、立ち上がる。
「…どこ行くんだよ?」
「和のとこ。帰ったら行くって約束してたんだよ。」
マグカップをテーブルに持って行こうとしたら、
「……っ!」
ゴトン。
空のマグカップが落ちた。
後ろから急に抱きしめられたからだ。
「な、何してん…」
「…くな…。」
翔くんが小さく呟く。
「和のとこなんて、行くなっ……!」
ポケットに突っ込んだ携帯が、またブーブーと鳴り始める。
マグカップの深い青が、俺の足元で小さく揺れていた。
──ああ、これ、海なんだ。
その時、初めてその深い青は海の色なんだと思った。