ポストコロナの、ホワイト革命と「きれい過ぎる世界」 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

 

ここのところ、

・ポジティブ中毒、

・幸せでなければいけない症候群、

・罪悪や失敗を過度に恐れて、抱えきれない社会

などについてまとめてきました。

 

そういう目で色々見ていると、同じような指摘はたくさんあります。

今回は「ポストコロナの生命哲学」という本からです。

福岡伸一さん、伊藤亜紗さん、藤原辰史さんの対談本です。

その中で、映画版ではなく、

漫画版「ナウシカ」も参考に、ポストコロナについて語られている箇所から引用です。

 

消毒文化あるいは潔癖主義は排除を求める心性と一体です。

たとえば、真っ白なシャツだとどんな小さなシミでも目立ってしまうのと一緒で、社会に潔癖主義的な空気が漂っていくと、「汚れ」と思えるものが少しでもあると気になってしまい、消したくなるという心理的状況が働きます。その「汚れ」が見えなければ見えないほど、人々は恐怖感にかられ「汚れ」とされるものへの差別意識を強めていく

いろいろな価値観が入り乱れていく中で、純粋を求める潔癖主義の価値観が大きな力を持っていくということ自体は理解できます。しかし、危機に際し、特に為政者の側から見た、生きるべき「清潔な」人とそうではない「汚れた」人という選別意識と、異分子の存在しない清浄な世界という概念に取りつかれる恐ろしさを忘れてはいけません。あらゆるところで消毒が行われている今だからこそ、消毒文化あるいは潔癖主義が広まっていったときに何が起こるのかということを、私たちは改めて考え直さなければいけないと思います。

コロナの世界において注目すべき一つの大きなキーワードは「きれい過ぎる世界」だと思っています。私たちは、人間の不浄な部分に蓋をしがちで、ずっときれいなまま、若いままでいたい、常に成長していたい、といった欲望にずっと心を奪われてきたと思います。今回、新型コロナウィルスの感染拡大の中で私たちが見つけ出そうとしているのは、そんなきれい過ぎる人間観を見直すということではないでしょうか。不浄な世界で生きようとするナウシカの姿は、私たちは汚れを抱えていかないと生きていけない、というメッセージではないかと思います。そもそも人間というものは、あらゆる意味で清浄ではない、不潔な生き物なわけですから。

私たちの社会は今、何かに取り憑かれたようにノイズを消していく方向へと向かっています。それは消すほうにとってみれば確かにとても心地よいものかもしれませんが、反面、手を汚さない、冷たい暴力を伴うものでもあるわけです。

 

 

これを読んでいて思い出したのは、

岡田斗司夫さんの「ホワイト革命」です。

 

ホワイト革命とは、世の中の価値観が、

ブラックでないこと、ホワイトであることに重きを置かれるようになっていくということだそうです。

ホワイトとは、清潔さ、清廉潔白さ、見た目のキレイさ、誤りのなさ、など。

岡田斗司夫さんのほかの動画では、

ちょっと前は、自由であること、競争や上昇志向が重んじられていたのが、

今は、優秀な人ほど競争を嫌い、共生・仲間意識を重んじる水平志向になっているとのことです。

競争に勝って立場を得ても、かえって責任が増えて大変になるだけ、と思えば、

ムリせず、それなりに頑張って、横のつながりを大切にして、平和に楽しく過ごせればそれがいい、と感じる人は増えている気がします。

 

それがまた、スマホやSNSの普及とともに、

自分のいいところ、きれいなところ、ホワイトなところだけをアップして、

視聴回数や「いいね」の数に重きが置かれているのも、ホワイトな世界と言えそうです。

これが行き過ぎてしまうと、トキシック・ポジティビティ(ポジティブ中毒)となっていく。

 

最近の10代20代では、

「実際に幸せかどうか」とは別に、

「幸せそうに見えるかどうか」が重要で、最優先されるという話もあります。

 

 

 

岡田さんが動画で言われていて興味深かったのは、

一昔前までは、汚いことや不潔であることこそが「本音」であり、自分を偽らない人間の本質を表しているという価値観があったということです。

私のイメージだと、不潔というか「だらしないけど、それこそ人間らしい」という代表が「男はつらいよ」の寅さんだったのかなと思いました。

その時代を引きずっている人の中に、

「みんなやってなくても、本当はこう思ってるんでしょ」とでも言わんばかりに、汚い言葉でヤジを飛ばす人がいるそうな。

それは、ヤジではなく、誹謗中傷であり、犯罪なわけですが。

 

これは、現代のホワイトな世界が「きれいなものこそ正しい」という価値観であるのと反対に、

ちょっと前は、「汚いものにこそ本質がある」という価値観だったという見方もできるようですが、それは誤解ですよね。

人間の本質は、時にキレイゴトでは済まない、醜さや意地汚さもありますが、

「汚い=本質であり、正義」というのは、誤解です。

「りんごは赤い」というのと「赤いのはリンゴ」というのは意味が違います。

 

あるいは、ホワイトな世界では「汚いものは正しくない」という論理も成り立ちますが、

ルッキズム(外見至上主義)もまた、やや極端です。

もちろん、不潔よりは清潔の方がいいですが、いくら「見た目が9割」といわれても、

極論となると、大切なことを見失いがちです。

 

これはまた、

それだけ「人間の汚さ」を受け入れることが如何に難しいかを物語っているのかもしれません。

 

できるだけ、きれいな世界にいたい、痛みや苦しみは感じたくない、情けない自分は認めたくない。

ノイズを消したい、不浄なものは排除したい。

できるだけ生産性は高く、効率よく、おしゃれに、かっこよく、美しく。

そうでないものは、価値がなく、意味がなく、尊厳もない。

そうやって、命の価値まで貶められつつあるのが現代です。

 

現実は認めたくないことで溢れています。

認めようと認められまいと、時は流れ、嫌なこともやってくる、まいたタネは生えてくる。

どれだけアンチエイジングに努めても、年は取るし、

どんなに健康に気を付けていても、最期は死んでいかねばなりません。

 

「汚れ」が見えなければ見えないほど、人々は恐怖感にかられ
「汚れ」とされるものへの差別意識を強めていく。

とあるように、ホワイトな世界を目指せば目指すほど、潔癖度が増してしまい、不安にある。

心の中の「汚い自分」「他人を傷つけてしまうかもしれない不安」「好きなのに、嫌いだと感じてしまう自分」を許せなくて、自分をごまかし、抑圧し、否定してしまうことにもなりかねません。

 

ホワイトな世界になっていくからこそ、

「ホワイトにならない心、ブラックな心」をどう受け入れていけばいいのか、

「罪悪観」が次のキーワードになるのではないかと思えてなりません。

 

状況にかかわらずポジティブな態度の維持にこだわることは、ネガティブな感覚の正当性を奪い

苦悩を無益なもの、ひいては軽蔑すべきものに変えることにならないだろうか? 

本書はそうなると考える。

 

注意を悪からそらせて、ただ善の光の中にだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。(…)

しかし、優湯があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。そして、たとえ私たち自身が憂鬱を免れているとしても、健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断固として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を説く最善の鍵であり、おそらくもっとも深い心理に向かって私たちの目を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。  ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』

 

 

つづく。