健全な被害者意識が、罪悪感から罪悪観へと進む第一歩 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

罪悪観シリーズを続けています。

 

最近は、つらい状況にありながらも「自分が悪い」と自分を責め、

自己責任だからといって、誰かに助けを求めるでもなく、悶々とし続けるしかなくなってしまう。

そんな人が増えているような気がして、

「罪悪感」をテーマにいろいろ考えています。

 

 

つながらない「弱者」と「被害者意識」

 

精神科医の斎藤環先生の「「自傷的自己愛」の精神分析」。

とても興味深く、何度も読み返しています。
この本の最初の方で、最近の若い人の中で気になるのが、

「弱者であること」が必ずしも被害者意識につながらない、という指摘があります。

苦悩の元凶はネオリベラリズムという名の「システム」として漠然とイメージされていて、このシステムは彼らに「自己責任」という規範を要求します。

自己責任の論理は、若者たち自身によって進んで内面化され、それが内側から彼らを苦しめます。自己責任も果たせずに社会に迷惑をかける「醜い」存在として、彼らの被害者ならぬ加害者意識はいっそう強化されてしまうのです。彼らがどんなに追い詰められてもデモに行ったり「社会を変えよう」という意識を持ったりしにくいのは、自分自身を被害者として認識できないためもあるでしょう。

かくして彼らは、自らの存在意義を見失い、「なんのために生きるのか」「自分の生に意味があるのか」がみえなくなってしまいます。ホームレス支援活動に携わる湯浅誠氏は、こうしたい意識のありようを「自分自身からの排除」と呼んでいます。

私は彼らに、健全な自己中心性を持ってほしいと願っています。それはたとえば「ポジティブな被害者意識」のようなものかもしれません。苦しいときに、それを自分のせいにばかりするのではなく、自分を苦しめる社会システムを批判したり、それを温存している政治家を叩いたりするような自己中心性=被害者意識。それを心から願いながらも、実際には、それがひどく難しいことであろうとも思います。

 

 

自分が被害を受けながら、

「自分も悪いんです」ならまだしも、

「自分が悪いんです」と受け止めて、一人で苦しみ続けてしまう。

苦しみの孤立化は、トラウマになりやすく、

トラウマは、自分と世界は危険であると認識をゆがめてしまうため、ますます援助を求めにくくなってしまいます。

 

危険の中で生き続けるということは、

他人を信頼しにくくなるということでもあります。

「大丈夫?つらそうだけど」と、誰かが手を差し伸べてくれるチャンスがあっても、

「大丈夫です、フツーです」と答えてしまう。

自分に自信がもてないために、

他人に相談すること、自分のことで時間や労力を使ってもらうことは、

相手に迷惑をかけることであり、罪悪感につながってしまう。

「被害者意識」をもてれば、支援を受ける権利があると思いやすいですが、

それすらもてないと、流転輪廻のごとく、悪循環が止まりません。

 

 

脱被害のために

 

被害/加害というワードで連想するのは、

「被害と加害をとらえなおす」信田さよ子、シャナ・キャンベル、上岡陽江、三氏の対談本。

この中で、信田さんが書かれた「脱被害はいかにして可能か」という一節があります。

そのためには「被害者と名づける」ことには、3つの意義があると指摘しています。

 

1.状況の再定義としての意味

悪いのは自分であり、感覚が過誤であると信じるしかなかった世界を再定義して、新たな世界へと転換させる意味である。なぜなら被害者である自分は悪くないのであり、責任もないからだ。責任がないことを認めることは、どうしようもなかったと思うことにつながる。いったん「ぜーんぶ、しかたなかったんだ」とまるごと包含し過去を認めきるために、自分を被害者と定義することは必須である。

 

2.被害者であり続けることをやめるため

逆説的であるが、「被害者をたっぷりやる」ことは、被害者を脱するためにこそ必要な段階なのだ。

(中略)今の苦しみに自分は責任がないという免責性を強調している点だ。被害者ということばは、このように責任がない、悪くない、正義である、正しいのは自分だ、だから主張は認められるべき、といった過程を経て、いつのまにかとほうもない権力をさえ帯び始めるのだ。それを「被害者権力」とわたしは呼んでいる。わたしはこの権力を嫌悪している。ときにはそのことに悲しみすら覚える。被害者であることの権力性は、絶対的正義の衣をまとっており、そこに甘んじていることの安易さは、ときとしてさらなる弱者への支配に連なっていく

 

3.加害者がきちんと存在していることを意識する

脱被害者とは何だろう。それは加害者を超えることである。超えるとは社会的地位や力によってではない。加害者を支えるからくりを知ることによってである。

 

 

 

自分は被害者であると認めることは、

自分は苦しかった、つらかったと訴える権利があることを認めることであり、

生き延びるためには感覚をマヒさせて苦痛をやり過ごすしかなかった感覚をよみがえらせ、

「本当はつらかった」という自分の感覚・感情を、ちゃんと信じられるようになることです。

 

この「健全な被害者意識」がこじれると、

ゆがんだ被害者意識である「被害者権力」みたいなものにつながっていきます。

 

健全な被害者意識につながれば、

免責することで自己責任という名の罪悪感に苛まれることなく、

適切な支援につながり、キズを癒し、回復していき、被害者を脱することができます。

 

しかし、免責されたことが「自分は悪くない」「悪いのは相手」「自分は正義」「正義に逆らうものは悪」と、ゆがんだものになることがあります(と理解しました)。

「自分は被害者である」ことが「免罪符」であるかのように勘違いし、

疾病利得のように、過剰に責任の免除を求め、権力を手にした暴君のように、横暴になってしまう。

これもまた、悲しい形の再演、取り入れなのか、加害者の真似をしてしまうのかもしれません。

あるいは、「私は傷ついた経験がある被害者なので、配慮してください」と延々と免責・無責を他者に強要し、それが受け入れられないと他責的になり、それが高じて攻撃的になってしまうこともあります。

 

こうなってしまうと、

苦悩のために、別の罪を造り、更に苦悩が増し、

支援も遠ざかる、といった悪循環から抜け出せなくなってしまいます。

抜け出し方が分からなくなってしまう。

 

被害や加害の背景に、どんなからくり、どんなストーリーがあったのか、

それを聴いて、加害者を許すわけではないけれど、

「全く理不尽な暴力だったわけではなかった」という意味付けができるだけで、

悪循環がとまるきっかけができてきます。

 

罪悪感の背景には、必ず苦悩があります。

苦悩を見つめていくと、人間の罪悪が観えてきます。

これが罪悪観。

 

本当の意味で人間の罪悪が観えてくると、地に足の着いた人間観、幸福観が深まっていくはずです。