すべての人は「凡庸な悪人」~「考えていない」ということの恐ろしさ | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。



面白い本でした。

ナチスのホロコーストや、優生思想は、二度と繰り返してはならない、
人類の悲劇ですが、
くり返さないためには、しっかりと反省し、何を学んだのかが大事になります。

人種や命を差別してはいけない、
人は平等に尊厳なんだ、ということはもちろん大事な反省。

加えて、
そのような優生思想がなぜ生まれたのか、
その人間心理に立ち返った反省が必要ではないか、というのが、
ハンナ・アーレントの指摘です。

その原因を、
2つの主著「全体主義の起源」と「イェルサレムのアイヒマン」で彼女は、
(人はなぜ生きるのかを)考えないまま、わかりやすく実感しようとする「無思想性」からではないかと説明しています。

強制収容所で、何百万人もの人を殺したガス室の「ボタンを押す」
それを「仕事」として淡々とこなしたアイヒマン。
どんなに残虐な悪魔なのか、
あるいは、嫌々やらされて後悔していたのか、
裁判では、彼がどれだけ「悪人」なのかが注目されたようです。

しかし、アーレントが目撃したアイヒマンは、
いわゆる「極悪非道な人間」ではありませんでした。

自分に課せられた「仕事」を忠実に実行しただけ。
ただそれだけだった。

そんなことで何百万人も殺したのかと、違和感を覚えますが、
むしろ、だからこそ大量虐殺ができてしまったとみる方が正しいようです。

つまり、悪意を持って殺そうとしたら、
あまりの悪事に自分が耐えられなくなるのが普通です。
しかし、悪いことをしているという自覚がなければ、
それはいくらでもこなせてしまう。

無自覚だからこそ、人は悪を繰り返せてしまう。繰り返してしまう。
これを「凡庸な悪」と、アーレントは言っています。

特別な悪意があるから、ではなく、
何も考えていない、平凡な人間だからこそ、悪を重ねることがある。
知らずに人を傷つけ、殺してしまうことがある。
そんな、人間の弱さ、恐ろしさを見抜いた本です。

この人間の弱さは、弱々しさとは対照的に「正義感」として現れることもあります。
自身の考えが正しいと固執することは、多様性や差異を認めず、
相手を見下すことにつながります。
何かに強いこだわりを持ってそれに忠実であろうとする人ほど、
「悪の塊」になりかねない。。。

悪は平凡なものではなく、
非凡な悪意をもった「悪人」だからこそなせるワザという、
思い込み、偏見、そして期待が、私たちにはあります。

アーレントの言う無思想性の「思想」とは、
そもそも人間とは何なのか、人はなぜ生きるのか、というような人間の存在そのものにかかわる、いわば哲学的な思考。
アーレントが「凡庸な悪」というも、善の対極というより、哲学的に考えることをやめた人が陥るものとしてイメージされています。
その意味では、私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく、機械的処理(ただ物事をこなすだけ)になってはいないか。まずはそのような反省が必要ではないでしょうか。
無思想性に陥っているのは、アイヒマンだけではなく、誰もが陥りやすい罠なのでしょう。


私たちは、自分で自覚している以上に、
「知らずに犯している罪」が多いのかもしれません。

そんなこといったら、悪いことばかりしている気がして、何もできなくなりそうですが、
ここで考えたいのは、
「悪いことをしてはいけない」と必要以上に縮こまる前に、
「人間にとって本当に大事なことは何なのか」
「その、大事なことを忘れてしまうこと自体が、悪いことではないのか」
という反省が大事なのではないでしょうか。

「全体主義」が狂気に走るのも、一人一人が、自分の人生を生きようとせずに、
「誰か」の言葉に安易に流され、きちんと考えようとしなかったから、でした。

自分の人生は、自分のもの。

自分を大切にしたいと思いますし、
患者さんや自分と縁のある人にも、自分を大切にしていただきたいと思います。