【意志と中動態と自利利他 8】 自業自得とは、中動態的に責任を負うこと | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。


■自業自得と中動態

 前々回に、神的因果性と、人間的因果性について書きました。

 「因果」といえば、仏教の「因果律」あるいは「因果の道理」。

 因果律とは、
 どんな結果にも必ず原因があり、
 原因無しに起きる結果はありえない、という道理のことです。

 自業自得、自因自果、自縄自縛などとも言われます。
 自分がやった行為は、良くも悪くも自分に帰ってくる。
 因果応報とも言われます。

 業(ごう)は、行為のことであり、ここでは因と同じ意味で使われます。

 自因自果は、あまり悪いイメージはもちませんが、
 自業自得は、悪い結果を受けた時のイメージが強いようです。

 さらに、
 「悪い結果を受けたのは、自分の悪い種まきがあったから」
 というのは、その通りですが、
 なんとなく「ざまあみろ」「苦しんで当然」「自己責任だ」といった、
 悪果を受けて苦しんでいる人を、さらに追い打ちをかけるような、
 いやらしいニュアンスがまじっていることが多い気がします。

 もっと中立的、あるいは保護的に考えれば、
 悪果を受けて苦しんでいる人に対しては、
 「つらいね、大変だったね」
 「そういうこともあるよ」
 「誰でも失敗することはあるよね」
 「ついつい魔がさすこともあるよね」など
 慰めの言葉があってもいいはずなのに。

 苦しんでいる本人をさらに追い詰めるような、
 しかも関係ない人が、
 正義の味方のフリして、悪をこらしめるような、
 そんな言葉として使用されることもあります。

■意志と選択を、分ければ分かる


 これは、なぜなのでしょうか?

 ここにも、「する/される」の「能動か受動か」(しかない)考え方、
 行為には「意志」があるはずだ、という誤解や思い込みが隠れています。

 ここで「行為とは何か」について、
 「中動態の世界」から引用です。

 「あるい行為が過去からの帰結であるならば、
  その行為をその行為者の意志によるものとみなすことはできない。
  その行為はその人によって開始されたものではないからである。
  たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。
  しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって
  その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。
  日常において、選択は不断に行われている。
  人は意識していなくとも常に行為しており、あらゆる行為は選択である。
  そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とはみなせない。
  ならば次のように結論できよう。
  意志と選択は明確に区別されねばならない。」

  

 

 


 意志と選択は区別されなければならない。
 これは、悪い結果を受けたとしても、
 その原因は、「わざと」とか「悪意」があるとは限らない、ということです。
 
 私たちは、特に「悪い結果」を受けた時に、
 何かと「意志」や「意図」を気にします。

 あいさつしたのに返してもらえないと、
 「気づかななかった」のかもしれなくても
 「(わざと)無視された」と受け止めて、イライラしがちです。

 いじめに遭ってつらいとき、
 恐怖のあまり、心も体もフリーズして言葉が出ないことは、
 神経生理学的にもあきらかなことですが、
 「言い返せばいいのに、言い返さないのが悪い」などと、
 本人の「意志の弱さ」のような、曖昧なもののせいにされることもあります。

 アルコール依存症で、飲まないとやっていられない、
 不安を他の方法で解消することができない状態であっても、
 「飲みたくて飲んでいるとしか思えない」と、
 意志のせいにされることがほとんどです。

 ちょっとミスが増えたり、効率が落ちたりすると、
 「やる気がない」と言われることもあります。
 「やる気」も、意志や主体性などと似た意味で使われることが多いと思います。
 別に「やる気がない」わけではなく、
 疲れていたり、他の心配事があったり、色々な事情があるはずでも、
 パッと見てわからないからといって、そういった背景は無視されがちです。
 そのため「やる気」の有無が原因だと、やり玉に挙げられる。
 「責任感がない」とか。

 これらは、原因と結果の関係ではないはずのことを、
 無理やり「これ(わざと・意図的・やる気)が原因に違いない」と、
 でっち上げられているとさえ思えてきます。


■自業自得とは、「中動態的に」反省し、責任を負うこと

 本来、自因自果、自業自得とは、
 受けた結果には、どんな原因があったのか、
 原因に応じた結果が現れてている、という見方のはずです。

 とても科学的で、中立的で、客観的。

 意志や、主体性、やる気などの、曖昧なもののせいにせず、
 丁寧に原因をみていくことを重んじた教えのはずです。

 責任とは、他者から押し付けられるものではなく、
 自ら原因を顧みて、結果を引き受けることです。
 
 「責任を負う」「反省する」ということは、
 決して、自己否定すること、特に人格否定することではなく、
 「行動を振り返り、今後に活かすこと」のはずです。

 意志や、やる気を問題にしてしまうと、
 「自分すべて」を否定したり、
 本来、関係のない「人格」に問題があるように感じやすくなります。

 それでは、本当の原因を探ろうという気持ちそのものが削がれてしまいます。
 ヘンに落ち込み、感情的になりやすくて、本当の原因も分からないまま。
 悪循環に陥ってしまいます。


 國分氏も、当事者研究も参考にして、
 責任について論じるときは、まずは神的因果論から考えることが大切といいます。
 当事者研究では、当事者の行為を「外在化」し、
 一度単なる現象としてとらえることで、
 客観的に、冷静に自分の行動を振り返ることを勧めています。
 
 あえて、他人事として、客観的に考えることで、心に余裕が生まれ、
 徐々に、自分事として考えられるようになっていきます。
 人間的因果性として、主体的に取り組み、冷静に責任を引き受けられるようになっていく。

 それこそが、本当の意味で「責任を負う」ということのはずです。
 責任は、他者から負わされるもの(受動的)ではなく、
 自分のまいた種は、自分が引き受けるものだと認めるものです。
 その過程は、自分の内部でおこる過程であり、中動態的なものといえます。
 
 もちろん、自分の蒔いた種を冷静に振り返るということ自体が、

 簡単ではなく、難しいことも多いわけですが。