【意志と中動態と自利利他 6】 死の自己決定権と、加害/被害者性 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。


■古代ギリシア悲劇に学ぶ、被害者性と加害者性

 古代ギリシアには、意志という概念はなかったものの、
 故意に行ったこと(ヘコーン)と、
 故意ではないこと(アコーン)の区別はあったそうです。

 故意に行ったこと(ヘコーン)には、
 欲望や快楽に負けてやってしまうことも含まれ、
 「意志」よりも広い意味を持っていた。
 
 國分氏は、ギリシア学者のヴェルナンの
 「ギリシア悲劇における意志についての試論」という論文を参照しています。
 悲劇は、意志について考える上で非常に示唆的です。
 「主人公が何らかの運命に巻き込まれ、自分の思う通りに行為できません。
  こうしたいけど、こうできない。
  あるいは、やってしまったことが思わぬ効果を持ってしまう。
  悲劇とは行為と行為者の関係が鋭く問われるジャンルであるわけです」

 人間の悲劇は、古代ギリシアに限らず、医療の現場でも多く見られます。
 突然の病のために、できていたことができなくなる、
 夢ややりたかったことも断念せざるを得なくなる。
 そういう意味でも、医療現場での意思決定において参考になることは少なくありません。

 では、ヴェルナンはどんなことを論文で述べているのでしょうか。

 「人間的因果性と神的因果性は

  悲劇作品の中で混じり合うことはあっても、混同されることはない。」

 神的因果性とは、いわゆる運命に巻き込まれて行為させられること。
 そこまでいかなくても、自分ではどうにもならない、選択肢がないような状態。
 國分氏はこれを、運命の「被害者」といいます。

 人間的因果性とは、その行為をその人が為したこと。
 自分で考えて、自分で意図して行う行為。
 人はある決定的な何かをもたらした「加害者」としてとらえられる視点。

 ヴェルナンが主張したのは、
 加害者と被害者の両方の側面が混ざりあうことはあっても、
 混同されることなく、両方が同時に成り立ちうる、ということでした。

 近代的な考え方は、これらが両立することは認めません。
 能動的か、受動的か、ハッキリさせるのが近代の言語の特徴だからです。
 神的因果性を認める(受動性)ことは、その人を免罪することになり、
 人間的因果性を認める(能動性)ことは、いわゆる運命の力を無視することになる。

 責任の所在をはっきりさせようと思うと、
 両方ではなく、
 主体的・能動的にやったのか、意図があったのかなかったのか
 どちらなのかをハッキリさせようとします。


■死の自己決定権と、加害/被害者性

 現代の悲劇ともいえる、安楽死問題について、
 ここで考えてみたいと思います。

 神経難病や、終末期のがんなどで、
 治癒が見込めない患者が、「死にたい」と述べる。

 自分の力ではどうにもならない病魔の前では、
 心をくじかれて、生きる気力を失ってしまうこともあるでしょう。
 そういう意味では、被害者ではあります。

 しかし、そういう中で死を望むのは確かに自分の意思であり、
 自分で決めたことともいえます。
 それは、加害者ともいえるのでしょう。

 先ほどのヴェルナンの主張のポイントは「どちらも肯定すること」でした。
 裏を返せば、どちらも否定しないこと。

 「苦しいから「死にたい」なんて気持ちが出てきちゃうんだから、
  それは本当のあなたの気持ちじゃないよね」
 と、本人の本当の気持ちではないというニュアンスを前面に出してしまうと、
 それはそれで、本人の訴えを否定されるような、
 わかってもらえてない感が出てしまいます。

 また、
 「それが本人の意志なんだから」と真受けにして、
 死にたがっていると評価してしまうのも、なんだか丁寧ではありません。


 難治の病で、死が避けられない、あるいは生きる意味を見出せない状況において、
 死を望む気持ちが出てくることは、十分理解できることです。
 そのような状況の中で、「死にたい」と訴えることを、
 文字通り「肉体的生命を絶ちたい」と解釈するのは、単純に過ぎるのではないでしょうか。
 
 患者の心に「死にたい」という気持ちが出現してきた、ことを、
 もっと丁寧に、掘り下げて理解する必要があるはずです。

 中動態的に、その人の中で何が起きているのか、
 それを丁寧に描き出し、言語として記述することは、
 かなり難しいことです。
 自分の中で起きていることを言語化することも難しいし、
 まして、他者の中で生じていることを言葉にするのはもっと難しい。

 目に見えず、形のないものに、形を与えようとするのですから、当然です。

 「中動態を生き続けることは、実はひどく大変なこと」とも言われるように、
 加害者性も、被害者性も、矛盾する両方の意見を踏まえつつ、
 何が起きているのかを理解することは、かなり大変で、複雑な作業です。

 裏を返せば、
 「意志」を尊重するという形で、表面に現れた言葉の通りにしたほうが、
 ある意味では、楽です。
 それ以上考えなく済むからです。

 しかし、生きるか死ぬか、
 死を前にしてなお生きる意味はあるのか、
 そんな大きな問題から目を逸らさず、正面から向き合うことこそ、
 真に重要なことなのではないでしょうか。

 能動/受動の、意志を(過度に)尊重する視点から、
 能動/中動の、意思を理解しようとする視点へ。

 真の意味で「尊重する」とは、
 曖昧さに耐えて、一緒に悩んで、
 その奥にある気持ちを理解しようとすることではないでしょうか。