【意志と中動態と自利利他 5】 「生きる意味」への問いも、能動/受動を脱却して中動態から | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

■「生きる意味」への問いも、能動/受動を脱却して中動態から

 能動/中動という概念は、
 自分の行為が、自分の外と関連しているのか、自分の内側のことなのか、
 という表現方法です。
 自分が何をしているのか、自分に何が起きているのかを、
 中立的、客観的に描写するのに向いている、
 古代ギリシアらしい、哲学的な言語です。

 対して、
 能動/受動という概念は、
 自発的にやっているのか、(強制的に)させられているのか、
 という表現方法。
 自分の意志を主張し、責任は誰にあるのか、
 それを白黒つけようとする、
 主体性や自我を強調する、関係を切断する言語体系とも言えます。
 
 意志は、キリスト教に由来すると前述したように、
 能動/受動の概念もまた、キリスト教の影響を受けた言語と思われます。

 対して、能動/中動は、古代ギリシア由来とはいえ、
 比較的、仏教に近い考え方ではないかと思います。
 
 近代(モダン)になり「主体性」が強調され、
 その後ポストモダン思想において、近代的な主体性が批判させるようになりました。

 それは、主体の能動性を疑う、という言い方もできるようで、
 ポストモダンでは「受動性」が強調されたりもしました。

 そこで思い出すのは、
 ナチスの強制収容所を生き延び、そこでの生活を描いた「夜と霧」で有名な、
 精神科医ビクトール・フランクル。

 彼は、生きる意味についての発想を転換すべきといい、次のように述べています。

「私たち人間がなすべきことは、
 生きる意味はあるのかと『人生を問う』ことではなくて、
 人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度、
 『人生から問われていること』に全力で応えていくこと」

 これなどは、能動性から受動性への転換の典型例と言えるのではないでしょうか。

 しかし、中動態の重要性を訴える國分氏は、
 これも結局は、
 「能動と受動という、ありふれた対立の中で力点を移動しただけ」と喝破し、
 「能動と受動の対立そのものから脱却しなければならない」といいます。
 ポストモダン思想でしばしば語られる「脱構築」とは
 この対立からの脱却であるべきだと。

 そういう意味で、中動態という概念は、
 現代において、きわめて重要な気付きを与えてくれると思います。
 また、「自己決定権」「意思の尊重」を謳いながらも、
 どこか息苦しい現代医療を見つめなおすヒントが
 たくさんあるのではないかと期待せずにおれません。

 人生への問いも、

 自分が何をすればいいのか(能動性)

 自分は何を期待されているのか(受動性)ではなく、

 

 中立的に、自分の心に浮かぶ素直な問い(中動態的)としての

 「自分は、なぜ生きるのか」

 という問いを、見つめていくことが大切なのではないでしょうか。