【ケアと罪悪観1】一方通行ではない、ということ | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

キュア(治療)は主に医師が、

ケアは主に看護師が、

そんな大まかな役割分担で言われることがあります。

キレイに分けられるものでもないですが、ケアについて最近よく考えます。


ケアとは、「患者のお世話をすること」と言われることが多いと思いますが、
決して簡単なものではありません。

ケアは、その根底に「哲学」があり、
深い意味を伴うこともあり、
これは医者も是非学ばねば、と思い、
最近興味を持っています。



ケアに関心をもつきっかけになった言葉があります。


ケアは、一方通行ではいけない


ケアする側と、ケアされる側。

表面上はどうしてもこの違いは生じますが、
それが心理的な負担になることがあります。

一方的に何かをしてもらうのは、
ありがたい反面、申し訳なくもあります。


受け身でい続けると、
してもらって当たり前になってしまったり、
やろうと思えばできることも、やる気を失ってしまったり…。

キレイゴトではやってられない世界です。



「一方通行ではないケア」とは、
どんなものでしょう?



情けは人の為ならず。

幸せは、与えるほどに増えるもの。

東洋では自利利他、

西洋ではwin-winの法則とも言われます。


ケアしていたつもりが、ケアされていた。

そんな感覚のようです。



ボランティアなどではよく聞かれる感想です。

「手助けに行った自分が、かえって元気をもらいました」

「必死に生きておられる姿に励まされた」



「人間」の幸せは、人と人の間にあるもの。

そんな心の触れ合いを大切にする医療を目指したいです。