沈黙に耐えて「待つ」ことの意味 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

 
「沈黙」は技術ではない。
「待つ」のが技術なのだと教わりました。
 
「沈黙」は関係の中で生まれるものですが、
「待つ」のは自分にできること、自分次第でできることだからです。
 
ことばが《注意》をもって聴き取られることが必要なのではない。
《注意》をもって聴く耳があって、はじめてことばが生まれるのである。
 
ことばが大きなミットで受け止められる、迎え入れられるという、
あらかじめの確信がないところでは、ひとはことばを相手に預けない

 

 

「沈黙」は、試されている時間なのかもしれません。

 

「本当に、私の苦しみを受け止めてくれますか。

 誤魔化さずに聴いてくれますか」と。

 

受け止めてもらえない、裏切られるかもしれないと思ったら、

信じて、気持ちを吐き出せません。

 

「注意をもって聴く耳」とは、

一言一句を聴き取ることではなく、

覚悟をもって受け止めますよ、という「心の姿勢」なのだと思います。

 

その覚悟を伝えることが、「待つ」ということなのかもしれません。

 

それは、

「沈黙の向こうにある、声なき声を聴くこと」とも言われます。

 

 

静かだけれど、重い、言葉なき会話を大切にする。

 

医師としての、一つの理想像です。