「沈黙」は技術ではない。
「待つ」のが技術なのだと教わりました。
「沈黙」は関係の中で生まれるものですが、
「待つ」のは自分にできること、自分次第でできることだからです。
ことばが《注意》をもって聴き取られることが必要なのではない。《注意》をもって聴く耳があって、はじめてことばが生まれるのである。ことばが大きなミットで受け止められる、迎え入れられるという、あらかじめの確信がないところでは、ひとはことばを相手に預けない
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「沈黙」は、試されている時間なのかもしれません。
「本当に、私の苦しみを受け止めてくれますか。
誤魔化さずに聴いてくれますか」と。
受け止めてもらえない、裏切られるかもしれないと思ったら、
信じて、気持ちを吐き出せません。
「注意をもって聴く耳」とは、
一言一句を聴き取ることではなく、
覚悟をもって受け止めますよ、という「心の姿勢」なのだと思います。
その覚悟を伝えることが、「待つ」ということなのかもしれません。
それは、
「沈黙の向こうにある、声なき声を聴くこと」とも言われます。
静かだけれど、重い、言葉なき会話を大切にする。
医師としての、一つの理想像です。