【生の短さについて セネカ】 ではお尋ねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

古代ローマ帝政期、セネカは、
暴君ネロの家庭教師だった哲学者です。


■生の短さについて セネカ


諸君は永久に生きられるかのように生きている。
諸君の弱さが諸君の念頭に浮かぶことは決してない。
すでにどれほどの時間過ぎ去っているかに諸君は注意しない。
満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。

ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、
諸君の最後の日になるかもしれないのだ。

諸君は今にも死ぬようにすべてを恐怖するが、
いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。

多数の人々が次のようにいうのを聞くことがあろう。

「私は50歳から暇な生活に退こう。
 60歳になれば公務から解放されるだろう」

ではお尋ねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか
君の計画通りに事が運ぶのを一体だれが許してくれるのか。

人生の残り物を自分自身に残しておき、
何事にも振り分けられない時間だけを良き魂のために当てることを、
恥ずかしいとは思わないか。

生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、
時すでに遅し、ではないか。


有益な計画を50歳60歳までも延ばしておいて、
僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、
何と人生の可死性を忘れた愚劣なことではないか。


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「また今度」、

「きっとそのうち」、

「いつかかならず」、

と言い訳をしながら、今日に至る。


「生きる」とは何か、

年を重ねていけば分かってくるのかなあ、と思ったりもしますが、

年を重ねることで知らされることもあれば、

それだけでは分からないこともあります。

「歳を重ねる」といっても曖昧な表現ですし。



「今を大切に」と決意しながら、

「明日から」と先延ばしする。


「明日こそ」と意気込んではみるけど、

翌日には、もう忘れてる・・・。


そんなことの繰り返し。


結局「生きる」とはどういうことなのか。

「今」、何をすればいいのか



今日という一日が、あっという間に終わるように、

今年という一年も、気付いたらほぼ終わり、

そして、同じように人生も・・・。


でも、まだ間に合う!

あきらめない限り、ゲームオーバーではありません。