私の先生を選ぶ基準 | 愚者の独り言

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前のブログにてクンダリーニヨガを学ぶ際に、小山氏のところには行かずに、結局、田吹先生の方で学ぶことになったことを書いたが、それにはいくつかの決め手があって、一つは先生がクンダリニーヨガの先生であるだけでなく、柳生心眼流の先生でもあり、ヨガの行の説明において肉体面からの細かい指導ができるということであった。

 

チベット仏教の世界に入る前に、とある古武術の道場に7,8年通っていたことがある。

その先生も体を細かく認識し、繊細に体をコントロールしていた。

田吹先生のブログの記述からその武術の先生と似たものと感じ、この先生の下で習いたいと思えたのだった。

 

もう一つは先生が学んだものにオリジナルを加えたり、変更したりすることなく伝統のものをそのまま教えてくれているということだった。

 

話がちょっと遠回りになるが、チベット仏教をやっているとたまにオウム真理教の話が出てくる。

 

この団体が起こした事件等については証言も色々と食い違っていたり等、分からないことが多く、色々な本が出ている。

 

私もチベット仏教なんかやるくらいなので、この事件に興味を持ち色々な本を読んだ。

 

私が間違いの根本はなんだったのかということで一番しっくり来たのは教祖の麻原がほぼ独学で修行していたということだった。

 

imagoという雑誌の臨時増刊号でオウム真理教の深層という書籍がある。その中に永沢哲氏が書いた投稿があり、信者のクンダリーニヨガの体験談について、確かにクンダリーニヨガの体験ではあるが、やり方が非常に雑だというようなことを書かれていた。

 

これを読んだ時に直ぐに思い出したのが、日本の中国武術界で少し問題になったGと名乗っていた男の経歴詐称問題だった。

 

私は古武術と同時に陳式太極拳も習っていたことがあるが、その太極拳の先生曰く、伝統の先生について学んでいれば、Gの動きを見れば伝統の先生に学んでいないことが一発でわかる。非常に動きが粗暴で繊細さが求められるとこも大雑把に動いている。たただ、あそこはとんでもなく練習するから、内容がでたらめでも強い人がそこそこいたと言っていた。

 

私も当時の友人の一人にGの生徒だった人がいたので、太極拳の先生の言葉は納得のいくものだった。

 

この記憶と麻原が結びつき、独学でがむしゃらに修練して、変に力を付けちゃったのがオウム真理教のというか麻原のそもそもの問題だったんだろうなと思ったのだった。

 

もちろん、伝統の先生に学んだ人の中にも非常に困った先生方はいるので、伝統に根付いていればいいという訳ではない。

が、何か習い事をしようという時に、独学の先生は先生一人の体験からしか指導できず、深みがない。伝統の中のものであるなら、その歴史の中の蓄積された膨大なものを学べる。

なので、独学の先生なんて最初から除外されるべきものだと思っている。

 

独学の中にも素晴らしい先生はいるという人もいるだろう。

だが、私の一仏教徒としてのスタンスとしては、本当に素晴らしい先生なら、伝統の組織の中でも頭角を現すであろうと思われる。それが出来ず、でも先生になりたいという欲望が抑えられなかった人が独学の先生だったんじゃないの?と思う。

 

例えば、今でも麻原を信奉するようなブログ等がいくつかあり、読んだことがある。

麻原はインドのヨガ行者やチベットの聖者に認められたんだとどこかで読んだ。

だが、確か最高幹部の一人だった上祐が分派した後に発表した何かの投稿だったと思うが、とあるリンポチェに麻原が自身の体験を話していたところ、「悟りと体験は違う、悟りと体験は違う」と繰り返し忠告されていたというものを読んだことがある。

 

また、上記のクンダリーニヨガの体験談を書いた幹部も成就と言われたが、神秘体験はしたものの、中身は何も変わっていないことについて悩み、麻原から演技の修行をしろと指導されたそうだ。つまり悟ったふりをしろと。

 

つまり、神秘体験はしたものの、誰も悟っていないということだ。

 

団体が発表した内容と実際の会話や体験には、色々と違いがあるというのが実情のようだ。