一昨日(12日)の朝日歌壇には、山添葵さんの歌も入選していた。
「初採りの空豆短歌になるんちゃう?」ばあちゃんが言う簡単に言う (奈良市 山添葵)
馬場あき子氏選第6席である。
山添葵さんがすぐれた中学生歌人であることは、日本中の朝日歌壇ファンの知るところである。
もちろん、ばあちゃんも知っている。
初採りの空豆が採れた。
この新鮮な喜びを、孫の短歌のネタにできるのではないか。
ばあちゃんがそう考えるのは当然である。
しかし、短歌はそう簡単に詠めるものではない。
短歌は大喜利ではないのである。
以前、俵万智が、しばしば短歌を詠んでみて下さいと言われて困る、ということを書いていたの何かで読んだ記憶がある。
題を与えられればすぐに詠めるというものではない。
歌の種は、心が揺さぶられる感情である。
何かしら、あっ、と感じるものがあって、それを31文字の言葉に写し取って、歌らしいものになる。
そこからも、直したり、削ったり、簡単にはいかないのである。
心が揺さぶられないと、歌は生まれない。
「初採りの空豆短歌になるんちゃう?」と言われても困るのである。
しかし、その困惑を歌にしてみせたのは、さすが山添葵さんである。
下の句の「ばあちゃんが言う簡単に言う」という繰り返しで、その困惑がよく伝わってくる。
山添葵さんも、ひょっとしたら俵万智と同じように、いろんな人から「短歌を詠んでみて!」と言われたことがあるのかもしれない。
断るのももったいぶっているようで感じが悪いし、かと言って、即興で出来の悪い歌を詠んでこの程度かと思われるのも不本意である。
短歌は、本人が詠みたいときに詠めばよいのである。
周りの人々は、あまり期待しないでほしい。
古典を読んでいると、昔の歌人たちは即興で歌を詠んでいる。
多くは言葉遊びのような歌で、現代の文芸としての短歌とは別物であるが、それでもその反射神経に感心する。
井原西鶴が一晩で2万句の俳句を作ったことも、有名である。
どうしたらそんなことができるのか。
さんざん頭を悩ませて1週間に2,3首の駄作しか作れないわたしには、うらやましくてしかたがない。
練習すればできるようになるのだろうか。