大晦日である。
歳時記をめくっていたら、こんな俳句があった。
漱石が来て虚子が来て大三十日 正岡子規
子規の家に親友の夏目漱石と、弟子の高浜虚子がやってきた。
一緒に年を越すのであろうか。
すごい顔ぶれである。
句そのものは、趣向も技巧もない、できごとをそのまま詠んだだけの句である。
しかし、できごと自体の重みに価値のある句である。
三人でどんな話をしたのだろうか。想像するだけで楽しい。
その高浜虚子に、こんな句がある。
年惜しむ心うれひに変りけり 高浜虚子
若い頃は、新しい年を迎えることが楽しみであった。
いつの頃からか、楽しみよりも愁いを感じるようになった。
今年の大晦日は、両親のもとにわたしと娘、わたしの妹とその娘二人が集まり、両親と同居している兄もいて、総勢8人でにぎやかに過ごした。
来年も、さらに先の年も、こんなふうににぎやかに楽しく年を越したいと思うが、むずかしい。
父は老いとともに年々体力が衰え、今年は寝ている時間が多くなった。
来年の大晦日を、父と共に迎えられるかどうか、わからない。
子どもたちは、3人とも元気に走り回っている。
しかし、これもずっと続くかどうか。
日本は最近急速に戦争に近付いている。
子どもたちの幸せは、平和あってこそである。
紅白歌合戦を観ながら盛り上がっている子どもたちの姿に幸せを感じつつ、心の隅からウクライナやガザのことが消えることはない。
新しい年が、今より幸せになるとは、あまり思っていない。
行く年を惜しむ気持ちは、新しい年を迎える愁いと、表裏一体である。
新しい年は、子たちが希望を持って過ごせる年であってほしいものである。
明日は神頼みでもしてこよう。