昨日のこのブログで、松本清張の『顔』というサスペンス小説のことを書いた。
プロットは面白いし、紀行小説、鉄道小説としても楽しめる名作である。
しかし、わたしには物足りなく感じるところがある。
これはこの作品だけでなく、サスペンス全体に言えることである。
殺人の扱いが軽すぎるのである。
『顔』の主人公井野良吉の殺人の動機は、女と縁を切るため、である。
おれの一生がこんなつまらぬ女のために台なしになってたまるか、そんな不合理な、ばかばかしいことができるか、と心で怒った。自分からミヤ子が離れないとすると、ぼくは彼女を殺して、自由な身になるよりほかはなかった。一時の過失から少しも価値のない女と生涯をともにするような不幸は耐えられなかった。どんな手段をとってでも、ぼくは彼女を突き放して浮かびあがりたかった。
それで、ぼくはミヤ子を殺害することを決心した。
身勝手な言い分である。
自分の一生を「こんなつまらない女」「少しも価値のない女」のために台なしにしないために殺害する。
つまらない男のために台なしにされる女の人生に対する思慮は、微塵もない。
人を殺すことに対する罪の意識も、まったくない。
殺害後に役者としての地位を築いていくが、その間に罪悪感に苦しむこともない。
殺人計画の唯一の目撃者である石岡を殺すのも、自分の生活を守るためである。
殺される石岡の人生のことなど、全く考えていない。
人を殺すことに対する罪の意識が欠如している。
バレて自分の人生が台なしになることを、ただ畏れているだけである。
井野良吉は、決して知恵の足りない男ではない。
ミヤ子殺しの際には、殺害場所や手段を入念に考えている。
石岡については、殺害を企てるまでの9年間、興信所に依頼して身辺調査を行っている。
殺害についても不審を抱かれないように工作したり、殺害場所の下見をしたり、十分に思考を巡らせている。
これだけ思慮深く知恵のある人間が、なぜ安易に人を殺してしまうのか。
罪の重さに、なぜ気付かないのか。
これがサスペンスというものである。
主人公が人の命を奪うことの重みを真剣に考え、躊躇していたら、サスペンス小説は成立しない。
ラスコーリニコフは、サスペンス小説の主人公には絶対になれないのである。
わたしは、どうしても殺害された酒場の女給、山田ミヤ子の人生を考えてしまう。
井野良吉は、自分の人生が台なしになったとしても、山田ミヤ子とともに生きるべきであった。
そもそも、そのくらいのことで人生が台なしになったりはしない。人間はそんなに弱くない。
選ぶことができたかも知れない、別のもっと幸せな人生のことを思い、後悔することはあるだろう。
それも人生である。
わたしは、むしろ山田ミヤ子と共に生きる井野良吉の人生を読みたい。
これが、わたしが、サスペンスがあまり好きでない、という理由である。
安易に人を殺すなよ、と言いたい。
安易でなくても、人の命は奪ってはいけない。