有名な日本の昔話に、「六地蔵」というお話がある。こんなお話である。
年の瀬に、貧しいおじいさんが、薪を売ったお金で六地蔵のために笠を買ってかぶせてやった。笠が五つしか買えなかったので残りのひとりには自分の手拭いをかぶせてあげた。その夜、六地蔵がおじいさんの家にたくさんの食べ物を届けてくれた。おじいさんは、幸せに年を越すことができた。
思いやりの心を持って、仏さまを大切にしたために、御利益を受けた、というのである。
いい話である。わたしには真似できそうにない。
雪の中で自分の手拭いを脱いで地蔵にかぶせてあげるのは、簡単なことではない。
わたしのような、自己犠牲の精神もなく仏さまを敬う心の薄い人間は、仏さまにも救ってもらえないのか。
いやいや、仏さまの慈悲は、そんな小さなものではない。
わたしの好きな説話集に、『宇治拾遺物語』がある。その、巻3の第12話は、こんな話である。
動物を殺すことを生業としていた男が鹿を追って寺の前を通ったときに、地蔵の姿が見えた。帰依の心を起こして笠をとり、その前を通り過ぎた。
その後男は病死し地獄に落ちたが、一人の僧に救われて蘇った。僧はあのときの地蔵であった。男は殺生をやめて、長く地蔵に帰依した。
この話を読むと、ほっとする。
深い信仰心や自己犠牲の精神がなくても、仏さまの慈悲を受けることができるのである。
仏さまの慈悲は、広く、深い。
男が地蔵の前を通る場面、本文には次のように書かれている。
左の手をもちて弓をとり、右の手して笠を脱ぎて、いささか帰依の心をいたして馳せ過ぎにけり。
作者は、男の信仰心の薄さを強調している。
男は殺生で生計を立てている。このときも鹿を追っており、まさに殺生の最中である。
地蔵の前でも、男は弓を置いていない。左手に弓を持ち、右手に笠を持っているから、手を合わせてもいない。
「馳せ過ぎにけり」とあるから、馬から降りてもいないし、馬を止めてもいない。
ただ、心に帰依の心を持って笠を脱いだだけ、である。
そうして、地蔵によって地獄から救われる。
わたしは仏教徒ではない。常日頃、何の信仰も持っていない。
しかし。道端でお地蔵さまを見かけたら、心の中で拝んでみようと思う。帽子は、脱ごうか。
救われるかもしれない。わたしも、あなたも。
信仰は、すべての人にとって、救いであるべきである。そのための信仰である。
世界中に、信仰のために苦しめられている人がたくさんいることを思うと、胸が苦しくなる。