『古今著聞集』の中の、わたしの好きなエピソードを紹介します。京都大学や中央大学の入試にも出題されたことがある、有名な段です。こういう話を読むと、古文を読むのが楽しくなります。
頼光朝臣の家来の季武の従者に、屈強の者がいた。季武は、ぶら下げた針も射損なうことのない、弓の名手であった。その季武に、従者が言う。「ぶら下げた針を射ることはできても、3段(約30m)先の私を射ることはできないでしょう。」
自分の主君に対する、とんでもない挑発です。季武はこの挑発を受けて立たないわけにはいきません。
「もし私が外したら、お前のほしいものを何でもやろう。で、お前は何を賭けるのか?」
「私は命を賭けております。それ以上賭けるものはありません」
こうして勝負が始まります。季武は、30m先の従者に狙いを定めます。大切な従者を一人失うのは惜しいけれど、もう後には引けません。季武は矢を放ちます。
季武が放った矢は、従者の左の脇の下、体から5寸(約15センチ)ほど外れたところに突き刺さった。季武は、約束通り、従者の望むものを与えた。
従者が、もう一度やりましょう、というので、季武は再び従者に狙いを定める。先ほどはわずかに手元が狂ったけれど、いくらなんでも二度外すことはない、と自信を持っている。ところが、二度目は従者の右の脇の下から5寸外してしまう。
そこで従者は言う。
「言った通りでしょう。あなたの腕前では、針を射ることはできても人間を射ることはできません。人間の体の幅はせいぜい1尺(約30cm)に過ぎません。あなたは体の真ん中を狙って射ました。わたしは弦音を聞いてから動いたので、矢は当たらなかったのです。人間を射るときには、相手が動くことを考えなければいけません。」
季武は何も言い返せなかった。
こんな話です。
知恵を使って主君から賭け物を巻き上げた生意気な従者と、まんまとそれに引っ掛かった愚かな主人の話のようですが、実はそうではありません。
ここに描かれているのは、理想の主従のすがたです。
従者は、主人の弓の腕前に致命的な欠陥があることに気づいていました。ぶら下がっている針を正確無比に射貫く技術は、動く人間を相手にする戦の場では役に立たないのです。
しかし、従者の身で主君にそんな忠告をしたところで、「そんなことはわかっている。」と言われるのがオチで、気分を害することはあっても、素直に聞き入れてもらえることはないでしょう。
そこでわざと挑発して、自分が的になって賭けをしたのです。
さすがに実際に二度も射損なったら、季武も従者の指摘を認めざるを得ません。
従者は、自分の体を張って、主人に欠点を教えたのです。
この勝負で2回とも、季武の矢は従者の体から5寸外れています。これは何を意味しているか。
二回とも季武の矢は正確に従者の体の中心に飛んでいました。そして、従者は体の幅の分の1尺だけかわした。だから、ちょうど5寸だけ外れたのです。
従者は、体の幅の1尺分しか動きませんでした。もし季武の手元が狂って体の幅より外に矢が飛んでいたら、従者は命を落としていたでしょう。
従者が1尺しか動かなかったのは、季武の矢が絶対に体の幅の範囲に中にしか飛んで来ないことを知っていたのです。
従者は季武の弓の腕前に全幅の信頼を置いていたのです。1尺動けば絶対に矢は当たらない、自分は安全だ、と信じ切って、的になったのです。
季武の従者は、主人の弓の腕前を100%信頼した上で、主人に、その腕前に欠陥があるという忠告を、絶対に聞き入れてもらえる方法で伝えたのです。
こんな従者を持った季武は幸せ者です。
この後のことは説話の中に書かれていませんが、季武は相手の動きを読んで矢を射る、実戦で使える弓の技術を磨いたことでしょう。
腕っぷしが強いだけでは、従者は務まりません。忠誠心が強いだけでは、良い従者にはなれません。主君の顔色をうかがうだけの従者は要りません。
主人を信頼し、主人の欠点を見抜き、主人に受け入れられる方法で忠告する。まさに理想の従者です。
良い家来を持つことは、主人の重要な資質です。
「人を使ふことは、匠の木を用ゐるがごとし(人材を使うことは、職人が材木を選ぶのと同じ)」という言葉があります。
季武のもとにこのような優秀な従者がいたのは、季武の主人としての能力が高かったからです。
この説話に描かれているのは、理想の主従のすがたなのです。