所用で妻が数日不在になり、娘と帰省中の息子と3人暮らしをした。
普段ほどんど任せきりの家事をしながらの生活をすることになった。
始めてまっさきに、以前読んだ本で紹介されていた「環境としての母親」という言葉を思い出した。
以下、再度抜粋。
「環境としての母親」は、あなたに気がつかれず、意識されない母親のことです。
「環境としての母親」は見えません。 ふしぎなことを言っているように聞こえるかもしれませんが、神秘的な話をしているわけではありません。
たとえば子どもの頃、タンスを開けたら、綺麗にたたまれたTシャツがしまってありました。本当は母親が洗濯をし、干して、そしてたたんでくれたからそこにあるのだけど、あなたはいちいちそんなことまで考えなかったはずです。何も考えずに、 Tシャツを取り出して、学校に行く。
「環境としての母親」は普段は気づかれない。失敗したときにだけ、気づかれる。そういうときに、「環境としての母親」は「対象としての母親」として姿を現します。
タンスにTシャツがなかったときに、「あれ、お母さんどうかしたのかな」と思い出すし、停電になったときに「発電所で何かあったのかな」と私たちはネットを検索します。
うまくいっているときには存在を忘れられ、うまくいかなかったときだけ存在を思い出される。逆に言えば、感謝もされないくらいに自然に行われているときに、お世話はうまくいっている。
母親=お世話係というのは損な仕事なんですね。
失敗したときだけ気づかれる、とあるが、いなくなるとありがたみがさらによく分かる、ということも実感できた。
人間とは都合よく考えるものだ。
食事関係、洗濯関係、掃除関係の基本分担を決めて、あとは日々の状況で割り振りを変えてやってみることになった。
私は食事関係担当。献立を考えて買い出しをし、料理をして洗い物まで。息子も料理好きなので、都度交代して役割を変えてこなしてくいく。
その他にも風呂回り、ゴミ捨て、植物への水やり、部屋の片づけ、やることはいっぱいあるものだ。
普段の日常のありがたさを強く感じながらも、私自身は苦痛を感じなかった。
私は根っからの段取り好きなので、家事をスムーズに無駄な時間を減らしながらやっていくのを考えるのはむしろ楽しい。
あれを買っておいて先にこっちの準備をして、その間にあれを・・・みたいな。
仕事も基本そうやって考えて進めていくものだから、考え方は同じである。
もっとハードな家事をされている方はたくさんいるだろうから、ほんの数日やっただけでこんな軽いことを書くと怒られそうだが。
以前から我が家のカレーは私が担当だったが、ここのところ作っていなかった。
今回子供らのリクエストがあって久々に作ったカレーは、10人分くらいあったのに夕食、朝食で空になった。
こういう成果は実に嬉しいものだ。
「環境としての母親」という存在は、われわれ建設業にぴったり重なることを本を読んだ時に感じた。
インフラは「環境としての母親」 | 寿建設 社長ブログ (ameblo.jp)
やはり普段は気づかれず、失敗したときに大きくクローズアップされる。
もしも建設会社がなくなった時、今回私が楽しく代行したようにはいかないのは間違いない。