先日読んだ「聞く技術 聞いてもらう技術」(東畑開人/ちくま新書)という本の中に、本来の内容の趣旨とは別に、われわれの仕事である「インフラ」の存在について「なるほど!」と思う記述があった。ウィニコットという精神分析家が説いたという、「対象としての母親」と「環境としての母親」という区分の説明である。
少し長いが、引用する。
「対象としての母親」というのは、たとえばあなたが今、心に思い浮かべている母親の姿のことです。
母親はこういう人だとか、こんな思い出があったとか、ひとりの人としての母親の姿があなたの記憶に残されていると思います。一人のひととして母親を思い出すとき、 あなたは「対象としての母親」を意識しています。
これに対して「環境としての母親」は、あなたに気がつかれず、意識されない母親のことです。
「環境としての母親」は見えません。 ふしぎなことを言っているように聞こえるかもしれませんが、神秘的な話をしているわけではありません。
たとえば子どもの頃、タンスを開けたら、綺麗にたたまれたTシャツがしまってありました。本当は母親が洗濯をし、干して、そしてたたんでくれたからそこにあるのだけど、あなたはいちいちそんなことまで考えなかったはずです。何も考えずに、 Tシャツを取り出して、学校に行く。
これを毎朝、「今日もお母さんが洗濯をしてくれたんだ、本当にありがたいな」「しわひとつないや、感謝です」と思っている子どもがいたとするなら、親子関係にかなりシビアなことが起きているのではないかと心配になります。
あるいは、あなたが今、枕もとのライトをつけて、この本を読んでいるとすると、そのときいちいち「今日も電力がきちんときてくれているんだ、ありがたい」と思わないのも同じですね。このとき、電力会社が「環境としての母親」です。
電気が来ているのは当たり前であって、感謝もされない。いちいち発電所に感謝するのは、電力事情に深刻な障害が起きているときだけです。
「環境としての母親」は普段は気づかれない。失敗したときにだけ、気づかれる。そういうときに、「環境としての母親」は「対象としての母親」として姿を現します。
タンスにTシャツがなかったときに、「あれ、お母さんどうかしたのかな」と思い出すし、停電になったときに「発電所で何かあったのかな」と私たちはネットを検索します。
うまくいっているときには存在を忘れられ、うまくいかなかったときだけ存在を思い出される。逆に言えば、感謝もされないくらいに自然に行われているときに、お世話はうまくいっている。
母親=お世話係というのは損な仕事なんですね。
インフラとは、まさに「環境としての母親」なのである。
この区分をしたウィコニットさんは、よい子育てとは時々失敗も起こす「ほどよい母親」によってなされると言っているという。
何の失敗もない、完璧な母親は、何もしなくてもずっといい状態にいるので万能感に浸って、母親が世話してくれていることに気づかぬまま育ってしまう。
時々失敗があるからこそ、「俺は人に何かをやってもらってるから、気持ちよく過ごせていたのだと気づく。
ここに成長の萌芽があります。
というのだ。
インフラとは「下支えするもの」という意味の言葉である。だからミスのないよう常に管理されている。
しかし一旦ミスが起こると、ご存じのように世間は一斉にそのミスを攻撃する。もちろんないに越したことはないが、人間のやることに完璧はないのだ。
だからこそこの文章にあるように、そのような事態の時に存在に感謝するような仕掛けをすることが、今後のわれわれの仕事の広報で重要な視点だと思った。
タイトルとは違った、大変参考になる視点をいただいた本であった。
本来の内容も同様にとても面白い、おススメの良書。