先週末に岩手県の釜石市に宿泊。
翌朝は早めに出て高速道路を使わずに下道を通り、東日本大震災で津波被害を受けた海沿いの状況を見ながら戻ることにした。
そして出発し約30分経過した頃、私はとても懐かしい場所に行ってみることを思い立った。
それは、大船渡市三陸町越喜来にある三陸鉄道リアス線の三陸駅である。
この駅のホームに、30余年前の思い出があるのだ。
この駅は当時から無人駅であった。それ以来であるが、そのホームに立ってみた。
そして奥にある待合室、こここそが思い出の場所だ。
ドアを開けてみる。私は無人のこの待合室に2泊宿泊したことがあるのだ。
当時私は1年かけて国内を徒歩旅行していて毎日どこぞで野宿をしていたのだが、梅雨の頃にこの駅を訪れた。
以下長いのだが、その旅の記録である拙著「ぶらり日本歩き旅」からその時の出来事を抜粋する。
釜石で新しい靴(二千円の安物スニーカー)を購入し、三陸海岸沿い南下の旅が続く。
雲は重く、時折静かな雨を降らせた。
三陸町のある無人駅を宿に決め、ホームの狭い待合室で北海道で出会った旅友・松ちゃんヘハガキを書いていたら、ややツッパリ風高校生が八人ぐらい入って来た。どうも彼らのたまり場らしい。
「タバコ喫いてえなァ」
などと横目で見ながら何度も言うので、仕方なく久しぶりで買ったとっておきのエコー一三〇円を、
「いるか?」
と差し出すと、俺も俺もと近寄って来た。
それをキッカケに話してみるとなかなか純粋な男たちで、好感を待った。
「東京から北海道を回って歩って来たのけ、すげえなァ」
番長格の男は、待合室の寝袋を敷けそうなスペースをホウキで掃いて、
「ここで寝ればいいっぺ」
と、いろいろ気を遣ってくれる。
彼らが、「もっといい寝場所がある。コタツもガスコンロもあるよ」と連れていってくれたのが、もう一つのたまリ場である建設現場のプレハブ事務所で、割れたガラス窓から手を入れて鍵を開け、そこから侵入したものの、これは明らかに不法侵入で見つかれば逮捕されてしまうので「やっぱりやめとく」と駅へと戻って寝た。
翌日が土曜日で昼までで学校が終わるから、明日も一緒に話そう、と言ってくれたのでもう一日待合室で生活をした。一日中、雨。電車の来ない時間を見計らってコンロでラーメンを作ったりする。
しっかりみんな集まり、好色な話から真面目な話まで長々とした。彼らのうち何人かは来春から東京へ出て勤めるというので、東京はいかなるところか、東北人としてどのような心構えで上京すべきか、偏見に満ちた話をしてやると「ふんふん」とよく聞いているようだった。
夕方になると、彼らが酒を飲みたいと言うから、ウイスキーを一本買ったのだが、ほとんど口をつけないので僕一人で酔っ払ってしまった。
一人が窓の外を見て言った。
「あれ、またあそこに歩いている人がいるべ」
「えっ、どれどれ、本当だ」
見ると雨の中をポンチョをかぶって歩いてる人がいる。背中に何か背負ってるあたりがどうも歩き旅のようだ。
番長が言う。
「森崎さん、どうするべ。呼んでみるか」
「ああ。酒もありますからここで泊りませんか、って誘ってみてくれるか。無理には誘わなくていいけどな」
先刻、男を発見したのが走って追いかけた。
そして連れて来たのが、肩まであるような長い髪に、ちょっとエラの張った顔立ちの、もう三十代近そうな男性だった。背中のアルミの背負子にわずかな荷物と、肩に小さな袋を下げていた。
それらを降ろし、ベンチヘ座る。
番長が気をきかせてウイスキーを注いだ。
「歩いて旅行なさってるんですか」
「うん、そうだね」
「いつからですか」
「うーんと、もう五年にもなるかな」
「五年‼(一同ア然)」
なんでも高校卒業してすぐバイクで日本中を走り周ること八年、その後ガソリン代がかかるからと
バイクを友人に売り、以後ずっと歩いて日本中を移動していると言う。
「お金はどうしてるんですか」
「持ってないなぁ。たまに捨うけどね。スーパーとかで期限切れの食べ物をもらったり、ゴミ箱へ捨てる時間を見計らっていただいたりすれば食っていけるよ。今の日本なら食っていくだけなら楽に出来るよ」
びっくり仰天してベンチから転げ落ちそうになった。彼は肩に下げていた袋からビニール袋を取り出し、
「酒のお礼にツマミを上げる」
と、中に入っていたおいしそうなソーセージを出した。これもそうした手段で手に入れたそうだ。
学生らと共に、この無銭旅行者の話を聞いた。
「本当は駅の待合室で寝るのは苦手だ。人が来るからね。普段は神社なんかに寝てる。歩き始めた頃、歩くのが面白くて夜中の二時頃まで歩いてたんだけど、暑かったからパンツ一枚で駅で寝たことがあった。朝、ザワザワするから起きたら、周りに人がたくさんいて困ったよ」
やがて彼の話は旅で出会った幽霊話(墓地の近くで寝るとよく出るらしい)になり、学生たちは恐くなって帰っていった。
僕はすっかりべろんべろんになり、彼の話をしばらく聞いてからそれぞれ寝袋に入った。
朝四時半頃、彼はすでに寝袋をたたんでいるので僕も起きた。彼がどこかで拾ったというラジウスで紅茶を沸かし、ご馳走になりつつまた話を聞いた。
彼は昨年の冬、東京付近で一万円を拾ったという。近くにパチプロの友人がいたのでパチンコで三十万円に増やしてもらい、これまた友人から頂戴したテントで伊豆の山中に籠って生活していたという。
「お金ってあると便利だよね。たかが紙切れ一枚で、食堂に入って座るだけで料理が出てくるんだもんね」
駅で高校生たちと知り合い、タバコを吸わせたり酒を飲ましているので今なら大問題になりそうだが、当時はそんなに気にしない時代だった。
この番長とはとても仲良くなり、その後もしばらく手紙でやりとりしていたものだ。
そしてこの不思議な旅人とも出会ったのもいい思い出として今も強烈に残っている。
以下がホームから撮影した駅前の現在。
当時はもっと住宅が並んでいたと思うのだが、津波被害が甚大だったことも思わせる景色だ。
このホームは高台にあったので被害に遭わず当時のままだったが、もしかしてここに避難した方もいたかもしれないと想像した。
調べてみるとこの地区だけで100名以上の方がお亡くなりになったという。
あの時の番長、今どうしているのだろう。