先日出張で横浜に行く際、ずいぶんひさびさに東海道線に乗った。
車窓を眺めながら、大学生の頃に旧東海道五十三次を歩いて旅したことを思い出した。
当時、大学のワンダーフォーゲル部というのに入っていて、山登りの夢中であった。
長期の夏休みはほとんどそのためのトレーニング・準備と山の中にいたように思う。
バブル真っ最中の時代だったはずだが、バブリーな思い出はなく、汗臭いテントと山からの景色の思い出がほとんどである。
集団の山登りはそれはそれで楽しくやりがいがあったが、個人的に一人で歩くというのをやってみたくなった。誰にも気を使わず、自分ひとりの判断だけで進んでいくことをしたかった。
そしてなぜかある年に、旧東海道五十三次を歩くことを思いついたのだ(たぶん「竜馬がゆく」を読んだ影響)。
期間は1週間で京都まで行くには時間が足りず、日本橋を出発して親戚が住んでいる愛知県の豊橋市をゴールとしたはずだ。
なぜかテントは持たず、親戚・友人宅か、もしくはどうにかして野宿、ということを自分に課した。
ルートと周辺の歴史などを記した本(なんという本だったか、ネット検索したが見つからず・・・)を購入し、それをたよりに旅に出た。
青いザックを背負って日本橋をスタート。
もう四半世紀以上前のことでぼんやりしか覚えていないが、いくものシーンは刻まれている。
東京の銀座あたりをリュック担いで歩くのが恥ずかしかったこと、平塚あたりで寝る場所がなく夜間上映の映画館にずっといたこと、箱根超えがとてもきつかったこと(夜遅い時間に三島に到着して、歴史ある寺に泊めてもらった)、安藤広重の絵と現在の景色を比べて景色を見たこと、などなど。
その旅の途中、静岡市のはずれにあった佐渡(さわたり)という地区で、こんな万葉歌碑を発見した。
さわたりのてごに
い行き逢い赤駒が
あがきを速み
こと問わず来ぬ (万葉集十四巻東歌)
「佐渡(さわたり)りに住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が速いので、ろくに言葉も交わさずにきてしまった」と、歌の意味が書かれていた。
なるほど、急ぐがあまりいろんなことを見落としたり気づかなかったりしているのだ、というふうに私は理解し、大いに共感した。
そしてだからこそ「歩く旅」には意義がある、と単純かつ勝手な解釈をしてしまい、それから間もなく日本一周を歩こうなどということを思いついてしまい、私の人生は大きく常識から逸れていくことになるのである。
東海道を歩いた時は、まだ20か21歳の夏だった。
もはや四半世紀以上の歳月が流れたのだ。