敬意しかない映画、「すばらしき世界」 | 寝ぼけ眼のヴァイオリン 寿弾人kotobuki-hibito

たまたまアマゾンプライムの新着無料映画を探していたら、これがあった。

2021年公開の日本映画「すばらしき世界」。

地味なのだけれど、すごかった。

 

お話は、ヤクザとして殺人を犯した結果、13年の刑期を終えて出所してきた男が、どのように社会に溶け込めるかというもの。

エンターテインメント性はどう見ても一切ない。人を楽しませるために作ったという、いわゆる外連味(けれんみ)は一切なく、ひたすら一人の人間を見つめていくドキュメンタリーのようなフィクション。

にもかかわらず、引き込まれるという異常な名作。

見る人によっては視聴してしばらくして欠伸を始め、見るのをやめるかもしれない。けれど、脚本も書いた西川美和監督は、そういう観客なんかどうでもいいと思っているのだろうな。非常に真摯で誠実な語りです。

 

エンターテイメント性がまったくないにもかかわらず、引き込まれてしまう最大の要因は、主人公演じる役所公司さんの演技。

人間って、様々な相反する側面を持っていて、複雑にカットされた宝石のように個性的な光を放つものだと思う。その光は見る角度によってまったく違って見えることもある。でも、様々な角度から見て、見え方がさまざまであったとしても、その人間は、一人の人間としてのパーソナリティが確かにある。

その複雑さを、迫真に満ちた演技でこんなに実感させられて、確かに存在させる技量は、もう魔法としかいいようがない。

そりゃ、世界で評価されるわけですよ、役所さん。

という意味で、この映画は役所公司さんの国宝級の演技を見る映画。

 

テーマとしてはそんなに珍しいものではない。

暴力団対策法の施行以来、ヤクザは基本的に商売がじり貧となり、鉄砲玉で刑務所にお勤めになったあと出所しても、戻る暴力団組織はもうない。この主人公は、長かった刑期の辛さから、「今度はしっかりカタギになる」と決心して出所するのだけれど、刑期を終えた元犯罪者に対してこの社会は冷たく、定職にさえつくのが難しい。こうしたことも日頃から社会の暗部についての知識にアンテナを張っている人なら「ああ、この話ね」というレベルだ。

 

ただひとつ言えるのは、良質なフィクションというものは、どんな見事なドキュメンタリーをも軽々と超えていくということ。

 

私はポンコツディレクターとして長らくテレビ業界にいましたが、はっきり思うことは、ノンフィクションや報道の限界です。

 

テレビ局、特に報道のディレクターのありがたい特権というのがあって、それは名刺を持って「一度、お話だけでもうかがいたい」といえば、皆さん、結構お時間を割いてくださることです。もちろん、大きな組織なら、広報担当を通してではありますが。

どのような意図があるから企画をたてたいのか、何に問題を感じているのかなどは、とりあえずぼやけていてもオーケー。取材が本当に難しい現場でなければ、ありがたいことにお話はうかがえることが多いのです。

業界を離れた身からすると、これは有名なメディアの甘えと奢りであり、「どこの馬の骨かわからぬ奴が、とりあえず世間に知れた組織の名前を使ってもぐりこむ」という実は一種の詐欺なのではないか、と思ったりするのですが、それでもこの世間の好意があれば、それに甘えて(もしくはつけこんで!)、報道の記者やディレクターは、個人的に興味のあるネタに潜り込もうとします。

 

ところが、これは散々経験してきたことですが、「番組化して世間に広く問題提起をする意味がある」とはっきりしている事柄のほとんどって、最終的には取材拒否になる。これは取材される側が、自らの問題を取り上げてほしいと思っていたとしてもです。

 

去年、児童虐待事件の法的な段取りについて弁護士に取材したときのことです。性的虐待についての本人の証言を映像・音声記録として残すために(これは法廷での証拠になります)、カメラの回る中、アメリカで最新のインタビュー手法を学んだ専門家が子供に質問をしていくのだそうです。私はつい、昔、自分がテレビ局にいたときの感覚になり、「私がディレクターだったら、ぜひ、その専門家を取材させてもらいたいと考えるでしょうね」と言いました。もちろん、答えは「駄目です」と即却下。それはそうです。傷ついた子供がいるそんなナーバスな現場にカメラを持ち込むこと自体、ありえないですし、そういう専門家はおそらく顔を知られないように活動する必要があるのです。

 

そしてこれは完全に手前みそなのですが、私は唯一、スクープらしいスクープ取材をしたことがあります。クローン技術で高級和牛のDNAを持つ牛を大量に作り上げ、高級和牛の生産性を上げようという農林水産省のプロジェクトがあるのですが、当時は、試験的にこのクローン牛の高級和牛を店頭で販売しようという動きがありました。このとき、私が聞いた噂話は「実はクローン牛の多くは奇形児か謎の死を遂げている」というもの。これについては、本当にたまたま、その研究をしている国の施設の研究者が私に全面的に資料を預けてくれたおかげで、半ば農水省の皆さんを脅して、「本当に商品化を急いで大丈夫なのか?」という番組を作りました。いま思うに、このリークをしてくださった研究者さんは病気で、すでに余命もあまりなく、自らの良心で国に対して弓矢を引くような行動をしてくれたということのようです。

こういう偶然がなければ、スクープ性のある報道は本当、難しいのです。しかももちろん、幸運だけでなく、手間も暇もかかります。ひとつのことを報道するのに、どれだけの労力を費やすことか。

 

そして、特にドキュメンタリーは本当に厳しい。

例えばこの映画のようなテーマをドキュメンタリーで描こうとしたら、どうなるでしょうか?

まず取材に応じてくれる出所者を見つけるのが大変。なにしろドキュメンタリーはカメラを持った人間がほぼ四六時中、そばに貼りつくのです。そもそも大迷惑!そして応じてくれたとしても、それを赤裸々に描くことができなかったりします。

この映画では、長澤まさみさん演じるテレビプロデューサーと仲野太賀さん演じるディレクターが登場し、この主人公の更生の様子をドキュメンタリーにするためにディレクターが密着しています。

しかしある時、心を入れ替え、カタギの市民になると話していたはずの心優しい主人公が、ちょっとした事件に遭遇したとたんにカッとなり、チンピラをボコボコになるまで殴るというシーンが出てきます。ディレクターは最初のうちはこの様子を記録していますが、徐々にこの取材対象者の狂気を感じて、番組作りを放棄します。

現実でもこうしたことは起きるでしょうね。非常に現実味のある脚本です。

人はきれいごとだけでは生きていません。

この映画では「テレビ番組なんかで、世の中を変えられるわけがないじゃない」というセリフも出てきます。

 

ドキュメンタリーで生身の人間を描くことは可能なのか?

答えはイエスであり、ノーだと思います。

その人間のある側面を切り取ることは可能です。しかしその人間の様々な側面を「ありのままに」描くことは不可能に近いのです。

 

つまり結論を言うとこういうことだと思うのです。ドキュメンタリーはたいてい、現実の一部を切り取ったフィクションである。

ただドキュメンタリーを擁護するために付け加えるなら、誠実な思いで制作されたドキュメンタリーは、たとえ多くの制約のもとに生まれたフィクションだったとしても、そこに真実はあるものです。

 

それにくらべて、フィクションのなんと可能性のあることか!

 

フィクションは、「絵空事」とか「作り話」とか言われますが、実は人間の様々な側面を「ありのままに」描くことができる手法だと思います。浅い想像力で作られるフィクションは、それなりの絵空事にしかなりませんが、深い洞察力で想像されたフィクションは、この世界をありのままに近い形で示すことができる。

 

おそらくこの映画で脚本も書いた西川美和監督の目指すものも、そういうものであったのではないか。

というふうに感じたりしたわけです。