ここでは、タイのスカトー寺で副住職をされている
日本人僧侶「プラユキ・ナラテボー師」のもとへ訪れ、
瞑想の学びを頂いたときの体験記を紹介します。
 
プラユキ師は、現在、日本とタイを往復され、
帰国のたびに瞑想会を開かれ、仏教の学びを広く伝えています。
 
◆プラユキ師の活動を紹介するサイト
 
 
もともと「自殺者を一人でも減らしたい」
というプラユキ師の思いから、
生き苦しさを感じている日本の方をタイの寺にお呼びし、
仏教的な理解を通じて、苦から解放する活動をされていました。
 
現在では、日本での瞑想会を通じ、関心を持たれた多くの方が
師の指導を求めて、タイのスカトー寺に滞在されています。
(私が訪れたのは2012年の2月~3月にかけての1週間です)
 
「チャルーンサティ」という“気づきの瞑想法”を実践しますが、
動きながら行う瞑想法で、従来の瞑想法とは少し趣が異なるものです。
 
以下の二つの瞑想法が主なものです。
・リズミカルに手を動かす「手動瞑想」
・一歩一歩、歩いて行う「歩行瞑想」
 
現在、タイ東北部を中心に多くの寺で行われ、
医療関係からも注目されている瞑想法です。
 
瞑想法のくわしい内容は、プラユキ師のサイトや瞑想会で
ご確認いただければ幸いです。
 
以下、瞑想体験記です。
 
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<1> 「気づく」とは何か…!?
 
 
●「考え事をしない=気づき」なの?
 
日本で初めて手動瞑想をしたとき、率直な感想として
「これをしていると、考え事が一切できない」
と思いました(笑)
 
と言っても、しばらくすると「考え事」に気をとられ、
ハッとして「どこだっけ?」と、手が怪しい動きになるのですが。笑

ただ、手の動きに気づき続ける限りは、
考え事はしたくても、、、できない。

やりながら、この瞑想法は
考え事をしない状態を作る装置みたいだ…」
と思ったものです。
 
たしかに、瞑想は「思考に囚われない状態」なのだから、
当然と言えば当然です。
 
とはいえ、
 
「考え事をしない」=「気づく」なのだろうか?
 
…どこか、私の中では、しっくりきませんでした。
 
漠然と「瞑想は自分自身を変えてくれる」
と期待している心中にとって、
ゴールは「自分自身の考え(方)が変わる」です。
 
「“何か”に気づけた」
という特別な体験をどこかで求めてしまうものです。
 
何も考えられない状態が、自分のゴールかというと、
そうではない気がする。
 
“静かに座す瞑想”で、落ち着いた自分を実感する
という「気づき」のほうが、自分にはいい。
 
…などと思ったものです。
 
今では、いろいろな「カン違い」をしていたな、
と気づくことができます。
 
 
~~~~~
 
●わかっているようで、わかっていない「気づき」!?
 
さて、そんな私がスカトー寺を目指すことになったのは
静かに座す瞑想を習慣にしているものの
どこか「日常」との分離したままだ、と感じたからです。
 
瞑想時の、落ち着いて、物事に動じないような意識が、
現実生活で応用されていない。
 
感情の揺れ動きに引っ張られ、
コントロールできない苦しみを感じることがある。
 
瞑想と日常の“差”を埋めるもの何か?
 
それを求めたとき、プラユキ師の本を読む中で
 
「自分は“気づき”を理解しているのだろうか?」
 
と疑問が浮かびました。
 
あれ、わかっているようで、わかっていないかも。
 
…実は、ヨーガの経典には
仏教と共通する原理は数多く見られます。
 
教えの根本をなす「三法印」や「四聖諦」、
実践法としての「八正道」や「五戒」、そして「慈悲喜捨」など、
時代背景が同じだけに、呼応したものが登場します。
 
しかし、この八正道の一つである「気づき(=念)」は、
由来する言語が同じなのに、原理としての意味や文脈が、
ちょっと違うのです。
 
もちろん「気づき」自体は、
ヨーガの実践の中でも、一貫して必要なものです。
「気づき」がなければ始まらないのがヨーガの技法です。
 
しかし、自分が
ほかの原理を「こういう感じ」として、自分の中で明確にできるように
「気づき(念)」もできるかというと、何か足りない気がしたのです。
 
「“気づき”とは何か?
体験として、実感として、理解したい!」
 
これが、スカトー寺に行こうと心に決めた理由でした。
 

 

 
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●スカトー寺は、いたるところで「手動瞑想」
 
スカトー寺に行き、まず一番驚いたことは、
あちこちで手動瞑想を目にする、ということです。
それも、予想外のところで。
 
寺につき、プラユキ師に「お世話になります」と
挨拶している最中、師は私の話を聞きながら、
手を動かし始めました。
 
「あ、日常会話の最中でも、やるんだ…」
少々、驚いたものです。
 
ところが、それだけじゃない。
朝晩の読経においても、前に座る僧侶たちは、
ずっと手動瞑想をしています。
高僧の講話の最中とて、聞きながら、ずっと。
 
それは、寺に滞在している一般の修行者たちも同じです。
 
各自が各自のリズムで、遅い人、速い人も。
一見、「話を聞いているのだろうか?」という感じです。笑
 
日本で体験したイメージとは、ちょっと違いました。
 
瞑想というと、ちょっと“かしこまってやる”感じですが、
ここでは、準備も前触れもなく、いつでもやり始める、
そんな地場であふれています。
 
というより、やっていないときでも
「どこか心の中でやっている」ということを
感じさせられるような、そんな雰囲気が漂っています。
 
「ここまでやってみるものなのか(!)」
 
私も一日目から徹底的に取り組むことにしました。
 

 

 


~~~~~
 
●とことん「手動瞑想」

スカトー寺では、朝夕の読経で本堂に集まる以外は
個人でチャルーンサティを実践する時間にあてられます。

寺のあちこちで、静かに一人、
手動瞑想や歩行瞑想をしている人を目にします。
 
手動瞑想は、動きの型は決まっていますが、
「こだわる必要はない」と指導されていました。

手や足が不自由な人なら、その代わりとなる動きに
気づき続けることで、瞑想は可能になります。

また、状況によって、大きな手振りができないときは、
それなりの小さな動きでも大丈夫です。
(もっとも、最初は基本の型に従って行うのが大切です)
 
私の場合、座ってやるだけでなく、
歩いている最中も、どんな作業をするときも
できるだけ、手動瞑想をやり続けました。

できるときは、できる限りやる。

洗濯などで手が使えないときは
足先でパッパッのリズムをとり、
睡眠に落ちる最後まで、指だけ小さく動かしたり。

我ながら、「チャルーンサティ・マシーン」です。笑
 
もちろん、周りに気をとられたり、考え事をしたりで、
ハッと我に返ると、間違えていたりします。
 
とはいえ「しまった!」などと思わず、
「へー、こんなふうに我を忘れて思い出すのか」
と、新しい体験に出会うかのように気づき、次の手を動かす。
(手動瞑想の基本ですね!)
 
これを何度か繰り返していると、
この我に返る瞬間の、なんとも言えない
“意識の落差”が際立ってきました。
 
それまで実感として明確ではなかった
「思考にハマっている意識」と
「覚醒した瞬間の意識」の違いが
とてもよくわかってくる。
 
こんなに違うものが、同じ自分の中に同居しているのが
ちょっとおかしくもなってきます。笑
 
そのうち、ハッと我に返ったときに
「また、このパターンか(!)」
と思うような、自分が思考にハマるときの“癖”らしきもの
感じられてきました。

私の場合は、たいていドラマっぽいシーン展開になるのです。
 
満足感で満たされるようなドラマもあれば、
嫌な出来事を上手くいさめようとする興奮シーンもあるし、
まったく、なんでこんなのにハマっていたの?
と思うような、ワケわからないものもあります。
(感覚の原理である「快・不快・どちらでもない」ですね)

ただ、面白いことに、なんとなくパターンがわかってきたせいか、
心が思考にハマっていこうとする微妙な瞬間の動きが、
だんだんわかるようになっていきます。
 
「おっと、そっちにいかないよ」
と、そんな感じで、手の動きに意識を戻す。(笑)
 
思考にハマっていこうとするときの“感受の感覚”が
クリアに浮きだってきた感じです。
 
こうして、じょじょに、心の活動を「客観的に見る」ことに
慣れ親しんでいきました。
 

 


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●考え事もする、けどハマらない
 
こうして、我に返る瞬間が早くなってきたせいか、
考え事をしても、ハッとすぐ戻り、
だんだん、手の動きを間違えることが少なくなってきます。
 
そのうち、
「あれ、考え事も同時にやれているかも…?」
と感じ始めました。
 
手の動きに気づきつつ、
確かに、心は何か別のことも考えている。
けど、ハマっていない。
 
考えのほうが勝手に来て、去っていく感じです。
 
「なるほど、“ハマらない思考”って、こんな感じなのか」
 
考え事と、それを見ている自分自身との間に
どこか“一定の距離”があるのが感じられます。

通常ならば、何か過去の記憶を思い出すと
「情緒的なエネルギー」に引っ張られます。

「あのときの、あれがよかった(イヤだった、困惑した…)」
と思った瞬間、何か別のシーンやイメージがくっついてきて、
どんどん思考にハマっていく。

でも、思考にハマらないときは、
情動的なエネルギーと、どこかで切り離されている。
自分の考えに、気持ちが振り回されないのです。

受け身的に全体を見渡していて、
一定な冷静が続いている、そんな瞬間です。


「ああ、こういう意識状態が
瞑想的に日常を生きるってことなのか」
 
自分の中で、足りないと思っていた体験が
手ごたえとして実感でき始めた瞬間です。
 
ただ、これ自体、何かすごい特別な体験というワケじゃない。
かつて、どこかで体験したことのある感覚でもあります。

もちろん、瞑想を習慣にし始めてから親しんだものでしょう。
でも、それよりも前からも知っていたような感じもします。
 
かつて、幼少より親しんでいたスイミングスクールで、
泳ぎながらいろいろなことを考えていた、
そのときと少し似ているような気もします。
(私は水泳と相性がよく、成果が出やすいスポーツでした)
 
もしかすると、こうした意識体験は、
日常のどこかで瞬間的には体験しているのに
ふだんは忘れてしまっているのかもしれない・・・
そんな印象も感じました。

とはいえ、たとえそれを経験したとしても、
ふだんの日常とどう違うのか、
どうすれば持続できるのか、
瞑想を前提とした観察と自覚がなければ難しいでしょう。

この瞑想法のおかげで、
すでに日常の中にあった“瞑想的なもの”も
なんとなく実感できるようになりました。

日常生活の意識と、瞑想的な意識を
どこかでつなげ始めた体験でした。
 
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●考えの中身ではなく、映し出す“場”の気づき
 
こうした体験を重ねていくと、
「我に返る瞬間」というもの自体、
あいまいになっていきます。
 
自分の前を、考えが行き来しているだけで、
それに、くっついていくか、いかないか、
それだけなのだ、という感じすらしてきます。
 
よく観察すると、考えが浮かぶその背後に、
ずっと、変わらない意識の“気配”があり続けている感じがします。
 
それ自体は動かずに、まんべんなく在り続けている。
 
だから、手の動き以外のことが心によぎっても
同時に対応できている感触です。
 
そのとき、ハッと
「“空っぽ”な感じがする(!)」
と思いました。
 
まんべんなくある意識の質。
それは空っぽだから、近づいてきたものは、サッと映すことができるし、
別なモノにすり替われば、パッと切り替わることもできる。
もしくは、同時に映すことも可能になる…そんな感じです。
 
最初は、手動瞑想しながら歩いているとき、
突然の音、鳥の鳴き声や、葉や枝の落ちる音に
はっと気をとられ、手も止まりがちです。

しかし、空っぽだと、それに気づきながらも、
気をとられることなく、同時に手の動きも気づき続けることができる。

突然のことにも、ほとんど動揺しないのです。
 
手の動きを変わらずに続けさせる、この“空っぽの意識”の気配に、
自分のほうが、少し驚きます。
 
そのうち、「まるで、“鏡”のようだ」とも、思いました。

ふつうの日常感覚では、
心が映し出す“対象物”に、
気をとられがちですが、
もはや、その映す、という“働き”そのもののほうに
意識の焦点が合っている感じです。
 
そうなると、どんなモノが映ろうと、
「その場に自分が映しているにすぎない」
という感触が増してきます。

このとき、じつは、日常の心というものは
鏡のように、モノを映したりしていない、
心に映したいものを、
自分が選んで映そうとしている
にすぎないのだ、と感じました。

本当に鏡のようだったら、
ただ、受け身で観察するにすぎない。
だけど、そうじゃないから、
映し出すそのモノに、あれほど反応するのだろう、と。

実際、スカトー寺のシンプルな生活の中では、
かえって、外からの刺激が少ない分、
自分の心が映し出すモノに、
自分が反応しているのがよくわかります。


僧侶や修行者の慎み深さを見て、
日本で自分があんな雰囲気でいたら、周りはどう反応するかな…
ほかの滞在者の掃除の様子を見て、
なんかあれおかしい、自分だったらこうやるよね…
 
何かの「モノ」をきっかけに、心はいろんなシーンや物語を生み、
そのイメージされた「こと」が、
いつの間にか「自分」と関連づけられ
自分の世界を強固に色づけていく・・・。
 
でも、“場”のほうに意識の焦点が合っていると、
心に映した「モノ」から、
自分が
何かを感じたり、イメージしたりした「こと」も
同じように、映しているだけだ、と気づきます。

「へえ、、、自分は、こういう状況で
こんなことを考えるのか」

他人を見るように、自分の何事かに気づきます。

自分って、こういう「こと」だったんだ、と。
 
そう気づくとき、その思考は、
ハマらせる作用がなくなってしまう。
 
ふだんは、自分の心に映した「モノ」と
そこから感じる「こと」が連続しているのに、
“気づき”続けると、それらは完全に切り離されて、
「モノ」も「こと」も、ただ平等に映されてある感触です。
 
(プラユキ師には、この体験から
「名」と「色」が分かれた意識状態をお聞きしました。
十二因縁の「名色」に理解に、一歩近づいた経験でした)

面白いものです。

ただ、こうした「空っぽな意識⇒鏡の感覚」は、
私の主体的体験にもとづく表現にすぎないと思います。

私にとって、こういう体感や表現になったのには、
従来からあった「自己の概念化」のイメージが
こうした表現を必要としたからだ、と感じます。

私自身が、一度
空っぽになりたかったのかもしれません。

そして、鏡のように自由に何でも映すシンボルが、
自分の中にも存在する、ということを
確認したかったのかもしれません。

体験から出る理解の言葉は人それぞれかと思いますが、
私なりの“気づきの体験”が
こんなキーワードをもとに展開した、ということが
とても新鮮で、そして確かな手ごたえでした。
 

 

 
~~~~~
 
●「考え方が変わる」って何だろう?
 
思い返せば、チャルーンサティの体験談で、
「以前は、無意識のうちに、
くよくよ悩んでいたけど、それが少なくなった」
という声をよく聞きます。
 
こういう「考え方が変わる」というのは、
一見、「思考が後ろ向きから前向きになった」
と思いがちですが、
詳細は、ちょっと違うかも、と感じてきました。
 
前向きでも、後ろ向きでも、どっちがあろうと、
そもそも「ハマる状況が少なくなった」だけで、
 
むしろ、
「後ろ向きなことを感じているその場で、
前向きなことも“同時に存在しえる”ことに
気づきだしたのかも」と思えます。
 
私自身は、そんな感じでした。
 
あの“空っぽの鏡”を実感したことは、
その映った中身を見ながら、それに囚われないのは、
どこか「それが絶対だとは思っていない」感覚が
あるからです。
 
ひとまず、何かの考えがよぎり、
それにあれこれ良し悪しをつけそうになっても
「これもあるけど、そうじゃないのもあるんだろうな」
と、どこかで別なものも存在しているような感触です。
 
ネガティブな発想がよぎっても、
それだけじゃない、
と、同時にうっすら感じている何かです。
 
また、何か自分を気持ちよくさせるイメージに浸ったとしても
これじゃなくてもアリだよね
と、流せる余裕もあります。
 
こんな、心が一つに囚われない自由な感覚が
“気づき”続ける状態だ、という実感が増していきました。

「気づく」とは、なんと自由なことなのだろう。
自分の体験に、歓喜した時間でした。
 

 


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●「観じる」ことは「気づき」につながる
 
私は、この体験を思い出すたび、
「感じる」と「観じる」の違いを、自分なりに感じます。
 
「感じる」はそのまま、
自分の内側に、感覚的に感じる何かでしょう。

でも、「感じる」だけだと、膨らんでいくこともある。
 
“感じ”たことに対して、良し悪しの判断をつけてしまい、
そこに「不安」や「恐れ」を“感じ”れば、
さらにそれを肯定否定して、
「嘘つきの私」「欲しがる私」「頑固な私」みたいに、
勝手な自己概念を“感じ”始めるかもしれない。

でも、「観じる」は、その「感じる」を“対象化”する働きです。
 
感じるだけじゃなく、それを「それ」として認めていく作用。

でも、それを「それ」と言うことができるのは、
“それ以外”もある領域の中でこそ、可能になる気がします。

(哲学的な表現だと、Aが「A」と知られるためには
同時に、「Aでないもの」の存在が知られていることが必要になる
といった感じでしょうか)
 
つまり、「観じる」その場では、
「それ」と「それ以外」の可能性を同時に認める“余裕”があるから
「それ」として認めることができる。

手動瞑想で得た「気づき」の体験とは、
そんな「観じる」意識と似ている、と
私なりに理解しました。

そして、こうした理解の整理をしたとき、
日々、伝統的なヨーガの実践で親しんでいた体験と、
手動瞑想の気づきの体験が、ピタリと重なっていきました。

というのは、この「観じる」ということは、
ふだんのヨーガの実践で親しんでいる意識状態だからです。

ヨーガのアーサナ(ポーズ)は、
姿勢の型を通じて、微細な感覚を観察することが基本です。


初心者のときは、微細な感覚レベルがよくわかりませんが、
実践を重ねていけば、身体の感覚が、
相反する「緊張と弛緩」の間をいったり来たりするのがわかります。

さらに体験を深めれば、
感覚はどちらにも変化する可能性を混在させながら
「今は、ただ、こうとしてある」というのがわかり出す。

どっちかではなく、
どちらにも揺れ動く可能性のすべてをもって
「今は、それがそうある」と知られる状態です。

肯定も否定もなく、
感覚を探そうとする意図もなく、
安らいだ受け身で全体を見渡せる、
そんな「観じる」状態だからこそ
理解できる感覚意識です。

これは、まさに「至福」のときです。


手動瞑想によって、
この至福は、ヨーガの時間だけじゃない、
日常の生活意識の中でも実現できるのだ、
ということが、確かな手ごたえとして感じられました。

 
一つのことを映しながら、違う何かも映し出せる、
自由自在の可能性を感じさせてくれる場。

心が、囚われのない“場”となり、
だけど、日常の生活も営んでいける、自由自在な状態。

自分が経験し、理解したかったことが
こういうことだったのか(!)と、
感じられた瞬間でした。
 
スカトー寺での手動瞑想は、最適な学びを与えてくれました。

 

 

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●「気づく」にひそんだ誤解に気づく
 
…さて、こうなってくると
当初「考え事ができない」と感じ、
自分自身を変える“何か”に「気づきたい」
と言っていた、自分のカン違いが見えてきます。
 
「気づく」とは、
そういう中身の問題じゃないのに、
最初から、そっちに気持ちがいっていた(!)
ということがよくわかります。笑
 
だから、「考え事ができない」と言いながら、
じつは、特別な考えが起きてほしい、
と、心のどこかで、期待していたのだと思います。
 
従来の自分と違う、
もっと特別な考え方をするように変わりたい。
その自分を体験させてほしい、と。

(もっとも、この記事の冒頭がまさにこれでした。笑
…瞑想者にありがちな期待が、自分にもあったのだと思います)
 
そういえば、プラユキ師は、最初から言っていたのです。
 
「考え事をなくすため」にやるのではなく、
「考え事に気づけるようにするため」にやる
 
…そうだったのです。
「考え事のあるなし」が問題じゃないんですよね。
「考え事に気づく」ことの何たるか、ですね。
 
自分にとっては、「気づき」を理解するのに
「場」の感触が、重要な手がかりになりました。

そう考えると、プラユキ師が語るこの言葉、
 
「集中しようと瞑想するグー系ではなく
今ここの空間をパッと広げるパー系でいこう」
 
という表現も、より味わい深く実感できます。
 
パッという“場”の体験は、
自分が当初持っていた「気づき」のイメージにはなかった
心の可能性に光をあててくれました。
 
 

 

 
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●そして心は、自分自身を映し出す
 
さて、最後になりますが・・・
体験は、もちろん美談だけではありません。笑
 
この「空っぽだからなんでも映せる」
という表現こそ、その後、私自身の心の「影」を
浮き彫りにしていくための、きっかけとなるものでした。
 
(プラユキ師が講話のテーマでよく挙げる
「自我の投影(押しやった自分自身の影)」
とは、まさにこれか、と気づくプロセスでした)
 
実際、「空っぽ」と表現したのは、
それまであった「自意識の重さ」に気づき始め、
解放される感触に、触れ始めたからだと思います。
 
ですので、
「空っぽ」を一度体験しだすと、
同時に空っぽにさせないような、
自分の心の反応の“土台的なもの”が、
じょじょに、映し出され始めました。

自己否定(落ち込み)
他者否定(怒り)も
どんどん出てきます。
 
「自分ってこんなこと考えていたのか!?」
 
動揺や後悔もあり、感情的には、波立つこともありました。
 
それまで無自覚だったけど、
自分の心をカタチづくっている決定的な何か、を感じます。
 
いや、本当は、今までも
うっすら、どこかで感じてはいたものの
見逃してよしとしていた、自分の本質的なものでもあるのでしょう。
 
「自分はこうではない」と思いたいものほど、
自分はそこに立っているのだな、と知りました。
 
(だから、今まで見逃してきたのでしょうし、
そういう人生の時間も必要だったのだと思います)
 
ですので、ここからが、プラユキ師が語る
「自己受容」の道につながるのだと思います。
 
「気づき続ける」ことに忍耐強くあることで、
心の影に振り回されずに、
自分が心に映すそのものを、受容していき、
その背景にある何事か(原因と結果の関係)に
光をあてることができる。

そのとき、自分が自分を「こういう存在だ」としていた
「影」の実在は、消えていくのだと思います。

そして、自己解放の「歓び」が訪れるのでしょう。
 
この道は、まだまだ続くと思われます。

苦しみは、外からやってくる、のではなく
自分から引き起こしている、ということを
まだまだ、もっと、実感することになりそうです。

でも、こうした「苦」の理解を通して、
自己解放の「歓び」を得るのでしたら、
苦は、どこかで歓迎できるものとして
自分の中に受け入れてもいけそうです。

苦と歓び、そのどちらも心に映せるだけの余裕、
それほどの偉大な「気づき」を、いつか体験したいものです。


~~~
 
こうして、スカトー寺の瞑想体験で、
「気づき」を通して、解放への道があることを
理解させて頂きました。

素晴らしい機会を与え、適切な指導をしてくださった
プラユキ僧侶に、深く感謝いたします。

伝統が受け継ぐ、仏教の智恵と技に
多くの人がつながれてありますように。
仏道とのよきご縁に、心から感謝いたします。
 
=====
 
「托鉢(たくはつ)」体験記
 
*こちらは、食に関するプロジェクト「いただきます絵本プロジェクト」で取材を受け、毎朝、僧侶と一緒に村を回り、食の施しを受ける「托鉢体験」を語った記事です。よろしければ、こちらもどうぞ(!)



(以上)