そらいろ時間(古典ヨーガ/ハタ・ヨーガでいこう)

そらいろ時間(古典ヨーガ/ハタ・ヨーガでいこう)

~ヨーガで、いけるところまで、いってみよう~

移動のお知らせ



『伝統的ヨーガを学ぶ会』は以下のサイトに移動しました

『そらいろ時間 ~ヨーガ・瞑想・呼吸~』
https://sorairo-jikan.jimdosite.com/














こちらは、「伝統的ヨーガを学ぶ会」のクラスのご案内です。



<通常クラス(継続生クラス)>
●水曜 昼クラス 

 座学 13:30~14:40(希望者対象)
 実技 14:50~16:50  


●金曜 昼クラス
 座学 13:30~14:40(希望者対象)
 実技 14:50~16:50  
 
●金曜 夜クラス
 実技 19:00~21:00(ミニ座学あり)


<特別クラス(単発参加クラス)>
◆日曜 昼クラス(月会費生無料)
座学 13:30~14:40(希望者対象)  

実技 14:50~16:50
 

*千代田区・渋谷区など、駅近郊の施設で行っています。
詳細は「お問い合わせ」からご連絡ください。

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● 料金
 <通常クラス>
 月会費 座学つき6,000円/座学なし5,000円
 
 <特別クラス> 
 単発参加 実技2,000円(希望者は+座学500円)

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◎実技について

 

「伝統的ヨーガ」は、ヨーガ経典にもとづく精神思想と

それにもとづく身体観をベースにした

ハタ・ヨーガの実践をしていきます。

 

体本来の調整機能を引き出すために
十分にリラックスをしながら、体内の感覚を微細に観察していきます。

 

アーサナ(ポーズ)で「身体」を最適化、

プラーナーヤーマ(呼吸法)で「生理」を最適化、

サマーディ(瞑想)で「心理」を最適化していくプロセスが土台にあります。


寝て行うポーズも多く、部屋も暗めですので、
あまり人目を気にすることなく、心地よく実践できます。

自分のレベルに合わせて調整できますので、
初心者から上級者まで、幅広くご参加いただけます。

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◎座学について

座学では、ヨーガの経典をもとに、伝統の精神思想にもとづく「心理原理と身体原理」を学んでおります。

ヨーガは古典哲学のなかでは「心理学」に位置づけられるほど、心理の構造と、最適化への実践が体系づけられた哲学となっています。


また、伝統の「身体観」から、どのように技法が生まれ、解剖生理学的にどんな効果があるか、メカニズムも確認します。

座学は希望者対象となります。(ご興味のある方はどうぞ)


①「ヨーガ・スートラ」編 (思想編)
 ヨーガの根本経典から、心理原理&実践原理の理論体系を学びます。
  ①ヨーガの概要/『ヨーガ・スートラ』の概要
  ②ヨーガの目的(心の最適化について)
  ③心理原理(心の作用、障害、煩悩など)
  ④実践原理(心理原理に即した実践、ヨーガ8部門など)
  ⑤サーンキヤ原理(世界の成立を表す原理について)
  ⑥サマーディ原理(心の沈静化(統合化)の深まり)

◇「ハタ・ヨーガ」編 (技法編)
  伝統的な身体原理にもとづく技法と、そのメカニズムを学びます。
  ①ハタ・ヨーガの概要(技法体系など)
  ②古典の身体観(ハタ・ヨーガの目的)
  ③アーサナ(原理とメカニズム、古典の記述など)
  ④プラーナーヤーマ(原理とメカニズム、古典の記述など)
  ⑤ムドラー&クリヤー(原理とメカニズム、古典の記述など)

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参加ご希望の方は「お問い合わせ」からご連絡をください。
クラスの詳細をお送りいたします。
ご一緒に、伝統的なヨーガを体験していきましょう!


 

 

今回の瞑想会のテーマは・・・「思考」です。

先日、プラユキ師のツイッターで、哲学者の先生と話題になり、
「思考とは一体なんだろうか?」を考えるきっかけになりました。

仏教において思考は、「思考にハマる」「思考にとらわれる」といった、

あまりよくない文脈で使われることが多いかもしれません。
瞑想でも「雑念を起こさせない、

思考しない状態」が理想的と思われがちです。

ですが「ブッダは思考を否定してはいない」と、

プラユキ師もよく語られています。
日常でも豊かな創造が生まれるとき、

そこには「価値のある思考」は必ず存在しているはずです。

ならば、仏教の教えでは、「思考」はどのように語られるているのだろうか?
私たちが囚われがちな「マイナス思考(非機能的な思考)」は、

いかに「役立つ思考(機能的な思考)」へと育めるのか?

プラユキ師も「雑念と呼ばれるものの中には、

よりよき創造を生む宝の原石もある」とよく語られます。
この言葉をあらためて理解するための瞑想会を開いてみよう(!)、

ということになりました。


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お話し会では、まず「ハマりがちな「ネガティブな思考」に、

私たちはどのように囚われていくのか?」を

仏教の原理から理解していきます。

通常は「十二因縁」のループ(回転作用)で説明されるところですが、

今回は、プラユキ師は別の図式を示してくださいました。

私たちの意識が五官(感覚)を通して
「触」という「何かの対象と触れる」ことで
「受」という「感覚的な感受(快・不快など)」が生じて
「想」という「情動的(感情的)な作用(貪・瞋・痴の三毒含む)」が生まれ、
「〇〇は~でないと、~でなければ」といった「概念化(妄想的なモノの見方)」が生まれていく。

この「概念化」に自分が同一化していくことで
パターン化(固定化)した反応が生まれやすくなる、ということです。

とりわけ、今回のアンケートでも顕著だったのが、
「不安、落ち込み、怒り」という、ネガティブな反応に囚われる状況ですね。

プラユキさんは
「よく『人は見たいようにしか物事を見ない』
『世界を自分が見たいように見ている』と言うよね。
必然的に“心のクセ”で見てしまうんだね」
とわかりやすい表現で語られます。

そして、ここからが、プラユキさんならではの
興味深い仏教解説になります。

私たちは、「思考」と一言で言っているけど、
この「想」を境界線として、
「思考」を「思」と「考」の作用を分けて整理すると理解しやすいよね、と。

まず、私たちが思考の「思」で「思う」ことは、
自然に起こる心の反応で、
これ自体は、ネガティブな思いであろうと、否定しても仕方ない。
むしろ、否定することで余計な抑圧が生じてしまう。

むしろ問題は、それが起きた“あと”にくっついてくる「考え」のほう。

つまり、次の「概念化」へつながるプロセスで、
自分の「ネガティブな思い」に対して、
心がブツブツと考え出す「心のつぶやき(考え)」こそ、
反応を固定化(自己同一化)させる問題の大元。

この心のブツブツは、自分の思いに対して、さらに

「否定したり」「抑圧したり」「より増長させたり」

とするようなものだったりもする。
悪循環な連鎖反応も引き起こしている。

これを無意識に進行させないで
「そのまま気づいて(念)、受容する(定)」していこう。

そうすると、この「考」自体は変化していく(!)

プラユキ師は、
「あるがままに受容していけば、
今までの『モノの見方(概念化)』から抜け出し、
新しい別の「見方」が自然と生まれてくるようになるよ」と
明確に語ってくださいます。

さらに、この「変化」についても語られます。

「気づいて受け入れる」ことで知る「変化」は
仏教の教えで大変重要な「無常(万物は変化する)」でもあり、
これが、私たちが体験的に理解していきたい「智慧(縁起観)」なのだ、と。

「無常は変化であり、その体験と理解が智慧である」。

わたしたちは、一見、
「智慧があるから、素晴らしい思考ができる!」
と思い、その前にある、
「素晴らしくない思考」を否定して、
「智慧」を手に入れようとしますが・・・

おそらく、ここがかん違いのポイントかもしれません。

「素晴らしくない思考」を
「否定するのではなく受容する」。

ここが、智恵が生まれる適切なプロセスと言ってもいいようです。

そして、この「気づいて受け入れる(念と定)」を適切に育むために、、
「気づきの瞑想」の実践が、
とても重要な役割を果たす、と教えて頂きました。




~~~

毎度のことですが、
プラユキ師のお話しのすごいところは、
「私たちのネガティブな思いを否定しない」ところです。

私たちにとって
「許しがたい相手や状況へのイラ立ち」
「ささいなことから湧き出る不安感」
などは
「消えたほうがいい」として、
どうしても「排他的」なアプローチをとってしまいがちです。

しかし、プラユキ師は、
それを「そのまんまでOKにしてみよう」とおっしゃいます。

あるがままに受け入れていく、否定性がない意識は
新しい発見、理解を生む土台になる、というのです。

それが、ブッダの教えであり、瞑想の実践の根幹なのだ、と。

じつは、この「受容」については、
瞑想会のあとの「歓談会」でも話題になりましたが、
「定(サマーディ)」を「受容」と訳したプラユキ師は

本当に画期的だと思われます。

従来、一般的な教本では「定」は「集中」とか「専心」と訳されることも多く、
どこか「思考しない意識状態」の側面に

光があたっている印象のようでした。

もっとも、修行という環境であれば、
現実世界の妄想性(思い込み)を見透かす意識として、
「集中」という表現は、最も自然なことだったと思われます。

とはいえ、日頃、仕事や人間関係にもまれて生きる私たちにとっては、
この集中は、もう少し「幅」をもって理解しないと、誤解が生じそうです。

「集中」で自身の「感情や思考を消し去る」訓練をしても、
生活の中に、心を刺激するものがたくさんあるわけですから、
「消し去りきれない!」というほうが普通だと思います。

そうなれば、「修行法が悪いのではなく、自分が悪い」と
過剰な自己否定も生まれかねません。

(プラユキ師が語る、瞑想で人生をよくしようとしたのに、
かえって人生の困難を増させてしまう「瞑想難民」という状態ですね)

「消し去ろう」というより、
「受け入れる」プロセスが、
「変化するという法則に即した心(智慧)」を理解するのに、

適しているのだと思います。

私たちが目指したい「自由」や「解放」というものは、
自分の感情や思考を否定したところには存在しないのだと思います。

長年、個人面談を通して、
日常を生きる人々の生々しい苦悩の姿を見てきたプラユキ師だからこその
法則性の本質をついた解説なのだと思います。






~~~

さて、この「気づいて(念)受け入れる(定)」ですが
私自身、的確に理解するまでに、結構時間がかかった、

という思いがあります。
(今でも、十分に実践できていないことも多々あります)

というのも、「受容」というと、
「受け入れがたい状況(外側)のほうを受容する」と思いがちだからです。
(納得できない相手の態度とか、不条理と思えるような出来事のほうを)

でも、ここで語られている「受容」とは、、
「その状況を受容できない“自身の心”(内側)のほう」
だということです。

たとえば、
「何かに失敗した」という状況で、私は自分を責めがちなところがありました。
「なんて軽率なんだ、人間として不十分だ」と。

また、そうした自己否定を本当は止めたいのに止められず、
それもまた、次なる自己否定になったりもしました。
(止まらない悪循環ですね…)

こんな状態の中で、「受容しよう」なんて、さらさら思えないし、
思ったところで、その思いは、すぐに情動や思考の嵐にかき消されます。

でも、自身の瞑想のつみ重ねのおかげか、
あるとき、プラユキ師が語る「受容」の核心が、自分に訪れました。

私の場合、それは「受容」という表現より、「許す」という表現に近い印象でした。

ある日の落ち込んだ夜、
「この状況も思いも、受容できるだろうか?」と思ったその瞬間、

「受け入れられないからこそ、こういう思いなんだ!」と
と突発的に、心の中で大きく叫びました。

でも、次の瞬間、
「いいよ、わかった!
じゃ、この受容できない自分を許そうよ!」

自分でも意外な言葉が生まれました。

「今は、そう思いたいんだから、仕方がない。
そう思っている自分を否定しない。
そのままの自分にOK出す」

「受け入れがたい現実」も
「それを受け入れられない自分」も
「その自分を否定したい自分」も

「全部そのままでよしとしてみよう!」と。

・・・そうしたとたん、何かが変わり始めました。

すぐにではありませんが、やがて、
止まらなかった思考が落ち着きだし、
また思考が始まっても、「それを許そう」と思った時点で、
制御できなかったエネルギーがスッと抜けるような体験をしました。

面白いもので、私は、自分にどれだけ無理をかけていたのか、
自分でもわかっていなかったのだと思います。

あるがままの自分を認められないことが、
こんなにも思考の暴走の原因になっていたとは、

適切には理解できていませんでした。

しかし一旦、受容ができると、心に余裕ができるので、

自分に対する問いかけが生まれてきます。

「じゃ、自分にとって、何が否定しなくてすむことなんだろう?」
否定ばかり募る自分の内側を、広く見ようとする意識が生まれてきます。

問題となった出来事の背景や理由に意識がおよんでいき、
それまで考えられなかった可能性に目を向けることができ始めます。


自分で自分の考えに「納得」が、少しずつ生まれていきます。

すると、自分が実現したかった、大元の“願い”が、ふと思いだされてきます。
「そうだ、自分がこんなに苦しいのも、

世界や自分に対して、こうあってほしいと

理想としたことがあったからだ」と。

 

「この願いを叶えるやり方として、

現実は自分の期待とは違ったけど、

これじゃなくてもいいんだよね。

ほかにも道はあるんだよね」
と、どこか素直になっていきます。

そうすると、
「この状況から、自分はどうしたいのか?」

「うん、今後はひとまず〇〇してみよう」


それまでどうしようもなかった状況に対して
「自分なりの自己決定(次の行動選択)」
が浮かんできます。

「そうか、自分なりの答えは、こんなふうにあったのか(!)」
これがわかると、なんだか、しみじみしてきます。

(この「願い」は、プラユキ師の語る「欲ではなく意欲のほう」ですね。
特定の結果に囚われずに、

自身の目的(原因)に即した選択ができる状態ですね)

一度、この体験をしてからは、
「受容」の意味が自分の中で、本当によく理解できていきました。

もちろん、ネガティブな思考は今でもあります。
すぐに落ち着く状況もあれば、時間がかかる場合もあります。
「こんな自分、以前だったら認められなかったな」というものも、よくあります。
 

でも、「受容の場」に自分をポンと置くスイッチが、

だいぶ入りやすくなった気がします。

「この自分を受け入れたら、自分はどうなるんだろう?」
その行方を見守ることは、新しい自分を知るチャンスとして、

少し楽しみでもあります。

確信としてあるのは、
「必ずいつかは、自分なりに納得できる『自己決定』にたどりつける」
ということ。

受容を通して、この確信を知ったことが、本当に嬉しいことだと思います。

私にとって、受容は、
「現実に起きたことも、それに対する自分の反応も、
『受容できない自分自身を受容する』」
というところから、理解と実践の一歩が始まりました。

「受容」という実践と理解を指導してくださるプラユキ師には

本当に感謝しております。




~~~~~

さて、話を本題に戻します。

今回、この「気づいて、受け止め、理解する(念定慧)」を理解するために
「子育て論」を素材に、プラユキ師に語っていただきました。

子育て論は自分の「心育て論」と同じ。

親が子どもに対してやりがちな問題の行動パターン、
「過干渉」「虐待(対立)」「ネグレクト(放棄、無関心)」の3つは、
仏教の「貪・瞋・痴」の教えに共通している。

そして、このパターンは、私たちが「対相手」「対自分」にとってしまう
ネガティブなパターン性と共通するものだ、と語ってくださいます。

つまり、私たちの自我は、
何らかの出来事や、それに対する自分の感情を「子ども」としながら
それを認められない「親」として、抑圧の態度をとってしまうことがある。

子どものあるがままの状態を、気づいて受容するのではなく、
最初から「こうでないと」という条件を押しつけてしまう。
(もしくは、認知しないフリをしてしまう)

私自身、この親的自我の「3つの問題行動パターン」を
自分の日常に照らし合わせた時、いろいろなことが見えてきました。

ふだん、自分がしがちな「当たり前の反応」は、
実は、受け入れがたい物事に対しての「過剰な反応」だったのではないか(!)

「あれ、この出来事(人)に対して、なんでこんなに過干渉になってしまうのだろう」
とか、一方では、
「こっちの事に対しては、見たくないという無関心をやっている」
とか。

結局、この「過剰反応」こそ、
「親に、そのままの自分を受容されなかった子どもがとる暴走」
と言えるのかもしれません。

プラユキ師は、温かい笑顔で語ります。
「“どんぐり”も“かしの木”も、どっちがスゴイ、
というわけじゃないよね。
どっちもアリなんだよね。
子どもの素直な感情に対して、
条件をつけてしまうのではなく、
無条件で、そのまんまいいんだよ、
ということを、言ってあげたいよね」

まさにその通りです。

その温かい目で、自分の「過剰反応」も、そのままに受け入れていくと、
これはどこか「自己防御ゆえの反応だったのかも」と感じられてきます。

あるがままに受け入れてほしかったけど、
そうしてもらえなかったゆえの暴走。

自分が自分を受け入れるにはまだ未熟だったころ、
「親」に受け入れてほしかったこともあるだろうし、
「世界」に受け入れてほしいと願ったこともあったと思います。

「自分がこうしてきたのは、世界のほうがこういう振る舞いをするからだ!」
なんて、どこか犠牲者になったかのような声も聞こえてきそうですが、
これはもう仕方ないこと。

「そうした行動こそが、自分を守るための大切なプロセスだった」
このことは、プラユキ師がつねに大切に語り、寄り添ってくださるところです。

私たちは、気づいた「今ここ」において、

適切な受容をすればいいだけなんですね。

そうすれば、この「過剰反応」の根底にある
現実世界に対して「どんな願い(意欲)を持っているか」が明らかになり
それを実現するための創造力、推進力を育んでいくことができます。

プラユキ師は、それこそが、
私たちが求める「役立つ思考(機能的な思考)」だと教えてくれます。

何事かを受け入れがたいとしているのであれば
その奥には、必ず「目の前にある現実より、

よいよいものを創造したいという願い」がある。
そこに光をあてていこう、と。

この3つの反応パターンは、3つの「力」に変えていけると説明されました。

・過干渉(貪)⇒「育成力」
・対立(瞋)⇒「改善力」
・痴(無関心)⇒「創造力」

この解説は大変面白かったです。
参加者からの質問もあって、
そもそも「貪瞋痴」がどういった背景からくる原理なのかを

含めた説明がなされました。

それは、「無明(無知)」という、

私たちの根本を表す仏教の教えにもつながります。

「それまで見ようとしなかった(無明=受容できなかった)何事かが

見えるということが智慧なんだよ」

私たちは、どうしても、智慧を何か「知識」めいたものにとらえがちですが、
「自身が見ていなかったものこそ観る」
この働きこそが智慧のようです。

もともと自身の内にある、それを観る力こそ智慧。

だからこそ、
「気づいて、受け入れ、理解する(念定慧)」という気づきの瞑想の実践は、
大きな力を与えてくれるのだと実感しました。

今後も、瞑想とともに、

さらに「役立つ思考(智慧)」を育んでいきたいと思いました。

プラユキさん、今回もよきご指導、本当にありがとうございました。
よき瞑想会の時間となりましたこと、感謝いたします。



~~~

最後に、皆さんの感想の声を、一部ご紹介いたします。

「三毒に対して否定的になりがちだったので、修正するきっかけになりました。『次の一手を自由に選べる』が、実感できました」

「思⇒考を分ける。そして、智慧に向かう。この流れが理解できたのがよかったです」

「子育てという具体例がわかりやすくて、自分の心の反応の理解が深まりました。イラストがわかりやすくてよかったです!」

「自分の中で、『受け入れる』ことと『過干渉』が、あいまいに理解されていたことに気づけてよかったです」

「三毒が念定慧で具体的にどう変容するか、とても興味深かったです。智慧について、ブッダがいろいろな用語で説明されていたことが、具体的に確認できたのがよかったです」

「ネガティブな思考を消したい、と思っていましたが、否定しなくていいんだとわかって、ほっとしました。智慧も、手に入れようと頑張るというより、受け入れれば自然と起こるんだとわかって、できそうな感じがしました」

「仏教用語に慣れていないため、理解しにくいところもありました。もっと十二因縁と関係づけて理解したいと思いました」

「いつも一人で瞑想していましたが、みなさんと一緒にやることで、初心に戻れました。歩行瞑想で『新しい一歩に戻れる』という指導の言葉に、とても安心感がもてました」

(以上)

今回の資料は、「この三毒を念定慧によって変化できるプロセスをイラストでわかりやすく見せたい」というプラユキ師の希望のもと、
かねてより、プラユキさんの十二因縁の説明イラストを描かれている“ざぼんさん”に、新規で描いていただきました。

心がほっこりするような、温かなイラストのおかげで、皆さん、自分なりの「心育て」の希望が実感されたご様子でした。
素敵なイラストを、ざぼんさん、どうもありがとうございました。


~~~

今後も、瞑想会は行われる予定です。
また、皆さんとご一緒できる機会がありますこと、楽しみにしております。

どうか智慧と慈しみのよき縁につながれていきますように。


 

 

2月の瞑想会に続き、
今回は「苦しみとの向き合い方」を
テーマに、瞑想会を開催しました。
(今回は40名の参加者です)

 

この「いかに苦しみと向き合うか」
は、3月の瞑想リトリートでも
特に印象に残ったテーマです。

 

日常で思うようにいかない状況に対して、
つねに自分の外側にある物事を
あれこれしようと画策してみたり
するものですが、、、

 

その前に、まずは
自分の苦しみの感情を「受容」して、
何が一体、苦しみの実態なのかを
「理解」していくことが
大切である。

 

このことを、プラユキさんは、
いつも親しみ安く、わかりやすく
語ってくれます。

 

自分の「今ここ」にある
満たされない感情や願い、期待に
自分は思った以上に気づいていない。
(だからこそ、感情は波立つ。)

 

内面にある事実がわかれば、
どんな状況でも、
落ち着いた「対応」が可能になる。

 

この「受容⇒理解⇒対応」のプロセスを
私自身も、ようやくですが、
体験的に理解できるように
なってきました。

 

いわゆる、仏教の「四聖諦」の
「①苦諦(苦があることを知る)」と
「②集諦(苦の原因を知る)」ですね!

 

そして、これあってこその
「③滅諦(苦の消滅を知る)」であり、
そのためには、
「④道諦(苦の消滅の方法を知る)」
という“瞑想の実践”が大切である。

 

この、仏教の根本的な教えを
改めて、皆さんと確認したくて
今回の瞑想会を企画させて頂きました。

 

 

~~~~~

今回も、事前に参加者の皆さんに
アンケートをご協力いただきました。

苦しみにまつわる体験談を
確認しながら、話が展開されます。

 

日常で感じる苦はいろいろあれど、
・「不安」系
・「怒り」系
・「落ち込み」系
大きく分けて3つのパターンが
あるように思われました。

 

(人によって、ハマりやすい傾向が
あるのかもしれません)

 

そこから、
「怒り」系と「落ち込み」系は、
自分の外に向かうか、内に向かうかで、
大元は同じ、ということが
説明されます。

 

というのも、
執着の“からくり”を理解するのに
煩悩の「108つ」の中身を確認すると…

「三つの煩悩」が(三毒…むさぼり・怒り・呆ける)×
「六つの知覚器官」において(六根…眼・耳・鼻・舌・身・意)×
「三つの時間の相」に渡り(現在・過去・未来)×
「二つの方向で」起こる(内・外)
 =108つのパターンがある(!)

 

なるほど、
私たちの心の反応を分解して見る、
仏教ならではの
明快な面白さがあります。

 

外内のどちらに向かおうとも
「(~の結果を)受け入れられない!」
「~であってほしい、でないと嫌だ」
としている欲(執着)は同じなのですね。

 

また、じつは
「苦しみがよくわからない」
「苦しみを感じづらい」
といった声もあることも話題になりました。

 

本当は「満たされない思い」が
今ここにあるのに、
特定の「ものの見方(思い込み)」が強すぎて
自分の苦しみの感情に気づけないこともある。

 

例えば、
「優しくされたら感謝しなきゃいけない」
という考えが強すぎると、
自分の願いと違う優しさを向けられて
違和感を感じつつも、それを抑圧してしまったり。

 

「~はこうであるべき」
といった善悪論争に囚われて、
願いが満たされない感情に気づかず、
状況の問題点ばかりに目を向けたり。

 

こうした状況が続いていくと、
得たいの知れないイライラが出たり、
どこか余裕がなくなったり、
ということが、
増していくかもしれません。

 

多分それは「苦しみ」だと
自覚できるようになるための
内側から出ている合図と
いってもいいのかもしれません。

 

苦しみとして引き受けた時、
その解消が始まるのでしょう。

 

このとき(!)、プラユキさんは
いつもにこやかにおっしゃるのです。

 

「どんな苦しみの感情も、
そのままに尊重して、
オッケ~を出していこう」
と。

 

これ、これなんですよね!!

 

…私は、かつてはその意味が
よくわかっていなかったようにも思います。

 

「オッケーだしたところで
問題は解決しないじゃん。
だから、何?」…みたいな。苦笑

 

どうでしょうか。
これは、結構多くの人が
する反応ではないかと、実は思っています。

 

でも、私も瞑想経験を重ね、
心に「今ここスペース」の余裕を持つことが
実感できるようになってからは、
この言葉がよくわかります。

 

実際のところ、
日常の困難な状況で
苦しみを感じた時には
「そのこと自体が嫌なことだ」と思っている。

 

つまりそれは、
その感情にある自分を否定的に見ているわけだし
こうでなくなる自分をよしとして求めているわけで、、、

 

その苦を感じている自分自身を
まるごと肯定して尊重して
「受容」するなんてこと
全くやっていない。

 

だから、自分の外にある状況が
変化してくれることに心を使うし
もしくは
今ここになる「動揺しない心」という
理想の(妄想の)状態が起きてほしいと
思って、
今ここの感情と向き合わないまま
苦の感情をはんすうすることになる。

 

私は今では、苦を感じたら、意識的に
自己否定する自分も
イライラする自分も
恐れを持つ自分も
「そうしたいんだよね、この自分は」
として、まず受け入れて
できるだけ、その感情を素直に許すことを
心がけるようにしています。

 

そうすると、自ずと
「自己対話」が生まれてくる。

 

「自分は何を求めていたんだろう?」
「どうだったら、こんな感情に
ならなかったんだろう?」
「何が一番イヤだったんだろう?」
「本当に願ったことって何だったんだろう?」
と。

 

すると、
「自分はこんなふうに思っていたのか…」
と、自分を縛っていた考えがわかるし、
同時に、
自分が「本当はこうありたいんだ!」
ということも見えてくる。

 

そのときには、
もう苦しみから解放され、
「今度はこういう対応しよう!」
と、具体的な行動まで
すっと心に浮かんでくる。

 

苦しみを感じる、満たされなかった自分を
そのままOKとして受容することで
こんなにも大きな変化があるのか、
と、ようやく実感し始めた今です。

 

プラユキさんは
その受容度がとにかく大きい。

存在感が「なんでもおいで~」と
言っている。笑

 

これなんですよね。

苦しくなったときこそ、
自分の中のプラユキさんを目覚めさせて(笑)
受容していくと、必ず
腑に落ちるところに行きつく感じがあります。

 

時間がかかっても必ずそうなる、
と、今は確信できるのが嬉しいです。

 

自分自身の思いにオープンハートで
いられることこそが、
智恵が現れてくる最初の一歩だと思います。

 

また、こうした
自分に対する「受容性」こそが、
他者への「慈しみ」を育むとも思います。

 

プラユキさんの
「あるがままにオッケーを出していこう~」
は、この瞑想会でも
キラリと光っていました。

 

 

 

~~~

話しはどんどん本質へと進みます。
では、苦しみが起こるメカニズムは
どう考えていけばいいか。

 

ここからは、いつもの「十二因縁」で
確認していきます。

とくに「触⇒受⇒渇愛⇒取」に注目です。

 

「取」は、まさに自由の喪失で、
「特定の結果に対する囚われ(執着)」。

 

その流れを変えるためには
「今ここ」に起こっていることに
いかに気づいていくかが大事、と。

 

つまり、
私たちの心が何らかの感覚を「受」して、
そこから感情や思いが生じるのは
普通のことで、
これを否定したいわけじゃない。

 

それに「自覚的に気づく」ことで
「はまり込む」ことを回避できる、
ということを知ればいいだけ、と。

 

そう、気づいたら、
この流れは勝手に変わる。

 

「反応」が暴走するのではなく、
状況に応じた「対応」が見えてくる。

 

これこそが、
この流れから「ポン!」と
飛び出る瞬間で、
これが大事!と、プラユキさんは語ります。
(飛び出るはタイ語で「ル・ポン」。
響きがいいですね~)

 

この飛び出ることができる
心の余裕こそが、
「気づきの瞑想」で培われれる
「今ここスペース」に開かれた意識、
ということになるようです。

 

これが「苦の消滅」のポイントになるようです。


~~~

さて、私もここで質問を入れます。

 

「『執着』と一言で言っても、
そこにあるのは、自分の願いや期待ですよね。

たしかに、「自分の言うこと聞いてよ!」
といった相手をコントロールしたい
欲求もありますが、
 

もっと、大きくて普遍的な
「お互い分かち合って、幸せを感じたい」
という調和的な願いもある。

 

執着とは簡単に言って否定できないレベルも
あると思うのですが、、、」

 

とたんに、プラユキさんがニコっと笑い
「その通りなんです!」
と、立ち上がり、
今日一番のクライマックスの
お話しが始まります。笑

 

プラユキさんのツイッターでも
しばしば登場する
「欲」と「意欲」の違いについてです。

 

ブッダも、決して欲求を持つことを
否定しているわけではない、と。

 

私たちが持つ願いや期待を
「欲」にしてしまうか、
「意欲」にするかで、
状況に対する対応がまるで変わってくる。

 

この二つをしっかり見極めて、
「意欲」に心を使っていこう、というのです。


・欲(タンハー)
 特定の結果にこだわり、結果に対して感情が激しく動く。(⇒苦しみにつながる)

 

・意欲(チャンタ)
 どんな結果であれ、「今ここ」に起きていることに向き合い、それを学びに変えられる。(⇒気づきの意識による対応)


私は、この話を
「因果(原因と結果)」の原理の軸で
理解したとき、
より実感できるようになりました。

 

私が苦しみを感じるような
心がざわつくときは、
自分でも無意識のうちに
「こうなってもらわないと」
と決めつけて求めた
“特定の結果”があって、
それが得られなかった時に起こるのだ、と。

 

でも、本当に自分が望んでいたものを
きちんと振り返って、そこに立てると
それは、
自分をつき動かす大元の願い(原因)
があるのであって、
具体的なカタチや出来事(結果)
ではないのだ、とハッキリわかります。

 

自分の究極的な願いに立てると、
目の前の結果がどうであれ、
それは、プロセス全体の一段階であって
まだ次はあるし、
より最適なアプローチがとれる
良い「きっかけ」でもある、
と思えてきます。

 

意欲というのは、
自分の「原因となるところ(本質的な願い=意欲)」
ととらえると、
「結果にこだわる」欲との違いが
本当に明確になってきました。

 

こうした違いが
明確に理解できたのは、
プラユキさんのご指導と
瞑想の実践のおかげ、と思います。

 

(もっとも、そうは言っても、
まだまだ「結果にこだわって苦しむ自分」
がいたりしますが)


さらに話は、参加者からの質問を受けて
「信」や「捨」とも関係づけて語られます。

 

・信(スッター)
 物事をあるがままに尊重し、そのままに受け止める。状況も感情も、理解への「素材」として信頼する。

 

・捨(ウベッカー)
 物事を、平静に平等に見渡していく。特定の何かを求めるのではなく、あるがままに受容してい姿勢。

 

この二つの原理が出てくる頃には
皆さんも、「なるほど~」と、
会場全体が、よき学びの歓びで
溢れているのが感じられます。

 

質問による対話によって
様々な仏教原理が関連づけて、
派生されながら理解できるという
プロセスは、私も大変好きです。

 

一の体験から十の教えを連想できるようになれば、
日常においても、
これほど心強いことはありません。

 

(脳の神経回路の発達具合も、
どれだけ信号回路がつながるか、
ということが鍵のようですね!)

 

プラユキさんの対話は
こうした豊かさが隋書に見られて
嬉しいです。

 

最後は
「瞑想をしていけば
『想定外』という心の外にあるものを
『想定内』という、「今ここ」の
心の気づきの内側に入れられて
何もこわくなくなるよ。
自分で適切な対応を選べるようになるよ!」
と、
瞑想の実践を後押ししてくださいました。

 

プラユキさんの「想定外と内」のお話しは
板書による図解と、
プラユキさんのわかりやすい手振りもついて
いつも盛り上がります。

 

まだ見たことない方は、
瞑想会にGO!ですよ。笑

 

プラユキさん、今回も
本当によき学びの時間を
ありがとうございました。

 


~~~
参加者の感想から一部紹介させて頂きます。

 

・「願いや期待を持ってもよい。欲と意欲の違いがわかれば」というのが大変印象的でした。仏教は受動的というイメージがありましたが、能動的な考え方のヒントを頂き増した。
 

・「意欲+捨」が、先に進むよき手がかりになりました。瞑想会は私にとって、幸せな時間になりました。
 

・アンケート結果から、「自分と同じようなことで苦しんでいる人が他にもたくさんいらっしゃる」とわかっただけで、少し安心しました。自分だけが特別なことで悩んでいるのでなく、多くの人が感じる普遍的な苦しみだと再確認できました。
 

・本で読むだけでなく、プラユキさんに直接会って教えて頂くと、パワフルさ、イキイキさが実感できて、素晴らしかったです。久しぶりに気持ちが晴れて、体が軽くなりました。
 

・プラユキ師のツイートを題材にした瞑想会の機会も設けてほしいです。

 

また、「気づきの瞑想」の実践に関しても…

 

・手動瞑想で、とても新鮮なスッキリとした気持ちが味わえました。
 

・皆さんと一緒に行う瞑想の場というのは、すごくいいものだな、と思えました。
 

・歩行瞑想中に、自分が普段からいかに雑念に支配されていたのか、気づくことができました。
 

・なかなか瞑想に取り組むことができずに悩んでいましたが、直接ご指導して頂き、気負いなく、構えずやっていいんだ、と思えてヤル気がでました!


ご好評の声を頂いて、私も嬉しく思います。

 

さて、次は、
瞑想の実践を中心とした会を開きたいと思っております。

いつもは週末ですが、今回はお試しに
今月末の木曜の夜の開催です。

 

「ここにくれば『気づきの瞑想』を
実践している仲間に会える!」
というような場を作りたくて、企画しました。

 

どうぞ、瞑想のベテランさんも新人さんも
瞑想でつながる善友のご縁の場を
ご一緒にもっていきましょう。

 

最後に、改めて
私たちに
よき智恵と慈悲のご縁をくださる
プラユキ師に心から感謝いたします。
 

今回も
私たちに苦とともに寄り添い受け止める
広い心の在り様を教えてくださり、
本当にありとうございました。

 

 

2017年3月18日~20日間の連休に、

東京西部にある御岳山にて、

プラユキ・ナラテボー師の瞑想合宿が開催されました。

 

(今回は、三年ぶりの開催です!)

 

前回主催した2月の瞑想会同様、

告知するやいなや多数の応募者。

 

定員15名を増やして19名(男性10名、女性9名)、

そして、プラユキ師と主催(田中)の

総勢21名の合宿です。

 

 

大広間の和室で自己紹介からスタート。

すでに、プラユキ師の会ならではの、

穏やかなムードが感じられます。

 

「気づきの瞑想をしっかり体験しみたい」

皆さんの意欲があふれて、わくわくしてきます。

 

 

1日目、最初の講話は、

仏教の土台となるところ、

「ブッダの九徳」「三福」「三学」に触れ、

教えの根幹である

「四聖諦」「八正道」を学びます。

 

今回、プラユキ師が用意された資料は

二部構成で、いつもの会よりボリュームも多い!

 

「じっくり腰を据えて仏教を学ぶ」

という姿勢が、会場にも溢れています。

 

「気づきの瞑想」は、いつもの「手動瞑想」からスタート。

 

 

実践好きの私は、手動瞑想が始まると、

会場全体の空気が「今ここ空間」で

パッと開く感じがして、

自然と表情も柔らかくなります。

 

「今ここ空間」という表現は、

プラユキ師からよく出るキーワードですね。

 

思考にハマらない、囚われていない、

覚醒し続ける「気づき」の意識が、

心に余裕のスペース、場をつくる感じです。

 

「歩行瞑想」も、

緻密になりすぎず、乱雑にもならず、

ちょうどいい足取りで、

一足一足のパッで、

「気づき」の空間全体を感じます。

 

 

「気づきが増すと、ちょっとした言動も、

丁寧で繊細さが増していきますね」

 

プラユキさんのそんな言葉のおかげで、

大広間の入口の乱雑なスリッパが

すぐに、サッと整然と並べかえられました。

(みなさん、気づきの効果が早い(笑)。

以後、三日ちゃんと続きました!)

 

さあ、夕方5時半~夜の10時は、

順番に入浴や個人面談、夕食を入れながら、

各自の瞑想の実践にたっぷりあてます。

 

気づきの瞑想の面白いところは、

目を閉じるわけでもなく、

かしこまってやるのでもない。

 

日常の体験の中で

「親和性」を持ちながらできることが

大きな特徴の一つ。

 

会場は静かですが、

会話をしてはいけないという堅苦しさもなく、

どこか朗らかなムードです。

 

手動瞑想しながら、

ちょっとした会話をするシーンもあれば

歩行瞑想しながら、

ちょっと手動も合わせて試してみたり・・・。

 

みなさん、瞑想で「気づき」の覚醒意識を

確認するかのように親しみ、

味わっているシーンが印象的です。

 

程よい頃に「伝統的ヨーガ」の実習も入れ、

手動瞑想とは違ったアプローチで、

全身の姿勢の型から、

気づきの意識を味わいます。

 

疲れをリフレッシュできるので、

長時間の瞑想が体験できます。

(初めて「伝統的ヨーガ」を体験された方にも

非常に好評でした。

ヨーガも原点は瞑想にありますからね!)

 

 

そうして一日目が終わり、二日目は、

朝5時半には瞑想実践がスタート、

講話を聴いてから、朝食です。

 

食事はもちろん「沈黙の食事」。

味覚だけでなく、香りや見た目、

外から聞こえる鳥や風の音、

今ここの時の流れなどを感じながら

味わって食べる時間です。

 

この沈黙の食事が、今回のメンバーには

とくに好評でした。

 

なかには、最後の感想で

「ご飯の味覚が本当に美味しく

際立って感じられて、今まで、

『味のメインはおかずで、ごはんはあくまでサブ』

と、勝手に決めていたことに気づいて

我ながら驚いた。

 

こうなると、ほかのことも、

無意識のうちに「良し悪し」を決めて、

囚われていることが多いかも、、、

と、見直すきっかけになりました」

といった声も。

 

「気づき」は、本当に面白い発見をくれます。

 

 

二日目は、午前中は「十二因縁」を学び、

「呼吸瞑想」の実践にも入っていきます。

 

さすが、合宿はいつもの瞑想会とは違う。

 

プラユキさんが翻訳された

「アーナパーナサティ・スッタ(出入息念経)」を

唱和しながら、瞑想を交互に繰り返します。

 

これは、なかなかスゴイ。

 

一回一回の呼吸を

どんな意識で気づき続けるのか、

ブッダの教えを声に出し、

その言葉にそっていく。

 

経典がどのように段階的な深まりを説くのか

実践的な体験として理解できていきます。

雑念のブレがなく、

すっと覚醒意識に溶けていく感じです。

 

しかし、同時に集中力の疲れも、、、(苦笑)

合宿ならではの、ふだん使っていなかった

瞑想筋肉(?)が刺激された気分です。

 

午後は、御岳山の山頂近くの丘にて、

自然の中での瞑想実践です。

 

待ってました(!)

 

宿坊から歩いて20分。

御嶽山神社の境内を通って、山頂に近い丘へ。

もちろん、移動中も「歩行瞑想」です。

 

 

 

 

やがて広がる絶景の中、

各自、気づきの覚醒に満ちた

「今ここ空間」を、

思う存分、味わっていきます。

 

思考や雑念にハマることなく、

いや、ハマっても戻ってくればいいだけで、

ただ、この空間で体験している全てを

受容的に受け止めていく。

 

果てない空が同じ目線にあると、

気づきを保つ、というよりは、むしろ

気づきの覚醒意識の中に、

自分という存在が浮いているような

気分にさえなります。

 

 

 

 

1時間ほどの実践のあとは、

「気持ちよかった~」というみんなの声。

 

合宿で、こうした「象徴的な体験」ができると

日常に戻っても、

積極的に瞑想に取り組む姿勢が

生まれますね。

 

このへんから、

メンバーの親睦もより深まってきます。

何気ない会話も、

どこか新しい発見につながって

喜びあうようなモードになっていく。

 

いいですな!

 

宿坊に戻ると、疲労感をとるための

伝統的ヨーガの出番。

あお向けでシンプルな姿勢を味わい、

ほどいていく・・・。

 

「気づき」の心地よさを、

また別の型で実感できる。

 

いいですな!

 

 

夜の瞑想では、

「瞑想しているのが、幸せで仕方ない(!)」

と、自然と大きな笑顔になってしまう人も

出始めました。

 

「今ここ空間」の自由で解放された感覚に

すぐに意識のチューニングが合うような

瞑想が上達している様子です。

 

「心の使い方がうまくなる」というのは、

こういうことなのかもしれません。

 

「何が起きてもオッケ~!」という、

あのプラユキさんの声が

まさに自分の心の内に起きています。

 

囚われない、をやろうとするのではなく、

囚われる必要のなさを

ただ味わっている歓びの感覚。

 

「気づきの瞑想」にとことん取り組める

合宿ならではの光景かもしれません。

 

 

さて、三日目は、「五力」の学びです。

瞑想を行ううえで

大切な5つのポイントですね。

 

この一番目にある「信」、

私はプラユキさんのこの説明が

本当に好きです。

 

かつて、私が学んだ「信」は、

「この実践を通じて、自分をよりよくするぞ」

といった、

「確信」とか「堅信」の意味合いでした。

 

もちろん、その側面も大事ですが、

プラユキさんを通すと、そこに

より大きくて深い「受容性」が際立ちます。

 

目の前に起こる想定外のこと、

そこから生じるネガティブな感情も含めて、

「それこそが、自分を知る発見のチャンス。

すべてオッケーとして、

信頼して、受け止めていこうよ」と。

 

内側であれ外側であれ、起こる現象全てを

「心をそこに置いていく」。

肯定や否定ではなく、そのままに

「まるごと尊重して、平等に受け止める」。

 

「信」とは、まさに

すべてを「信頼」して受け止めていく力である。

 

そうすれば、必ず、変化は生まれ、

そこにある本質的な願いや

方向性に気づき、

よき「縁」の何事かが見えてくる。


「ネガティブな感情を手放そう。

起こらないようにしたい」

ではなく、

「それこそ、大切な気づきにつながる

大事な手がかり」。

 

こうした発想の転換が、本当に嬉しいです。

 

プラユキさん語録の中には、

これに関連した言葉(ツイート笑)はよくありますね。

 

「妄想は、まだ十分に発揮されていない、その人の才能の原石」

 

「現象はただの現象だから、

それを正しく見れば

普通から逸脱した「マイナス」は、

そのぶん「プラス」になる力がある。

『-100』は『+100』に転化するね」

 

プラユキさんの存在感からは、

「気づき」から生まれた

「智恵」による自由が、

本当によく伝わってきます。

 

実際、私自身、

「マイナスがプラスに転化した」経験は、

人生のプロセスに結構あることを

思い出します。

 

失敗や苦難の経験は、

数年後から見れば、

「あの経験があったからこその今がある」

という、

納得の人生を生きた

「至福」と「智恵」をそこに感じる。

 

そのときはマイナスと思っても、

それをプラスにして生きている自分の在り様が

今ここに存在する。

 

そうした境地は、

感情一つ一つを「手放そう」といった

意図的な否定性からではなく、

「そうした思いをもつ自分を許そう」

という、

自己を受容する「慈悲」の想いから

生まれてくるのだと思います。

 

「どんな出来事も、そこで感じる感情も、

全てにオッケーを出せる『今ここ』がある。

そんな信頼の「信」で行こう」

 

よき学びを頂きました。

 

 

こうして合宿の本編を終えて、

時間に余裕がある方は、

一緒に御嶽山神社を参拝し

参道の食堂でお茶などをして、

宿坊で昼食をとりながらの「歓談会」です。

 

私は、

「プラユキさんの集いは瞑想会もいいけど、

ホントに面白いのは、

そのあとの『歓談会』にあり」

としている歓談会推進派(笑)です。

 

合宿中は、みなさん意識が覚醒するので、

ほら、今回も出てくる出てくる・・・!

 

「ふだんは覚えていないのに、

すごいクリアにこんな夢見たんですよ!」

という声(笑)。

 

「さ、気になる方は

プラユキさんと話してみましょう!」

と、かつて、私自身も

スカトー寺で体験した夢体験談も

交えて話したりもします。

 

プラユキ師は夢をヒントにしながら

「自己が今、

どんな自身と向き合おうとしているのか」

「今まで抑圧していた、

でも今、気づきたい自分自身の在り様」

を、夢のストーリーと

その体験の感触から

「対話」で、明らかにしてくれます。

 

それも、プラユキさんが診断するのではなく、

自ずと、その人が

「そういうことだったのか!」

と気づいてしまうような、

自ら内側の暗がりに光をあてるような

そんなプロセスをもたらしてくれるのです。

 

これが、本当におもしろい(笑)。

 

今回も、いいネタが出ていました。

「バスの中で、ちょっとわがままな

女子高生と一緒になる」

という男性の夢の話は、

とても印象深かったです。

 

これがどんな自己理解につながるのか

最初はみんな「?」でも、

対話を続けるうちに、

当の本人の表情が変わり

「そうか・・・!」と何かに納得をする。

この気づきの変化が面白いんですよね~。

 

 

ま、こうした夢診断もいいのですが、

歓談会の面白みは

決してこれだけじゃないですよ!

 

最後にみなさんで輪になりながら

「実際にやっている瞑想と、

目的地である自由や解放の境地が

直接結びつく実感があるか?」

をテーマに、

自由に感想や意見を述べ合いました。


これ、意外と「よくわかっていない」

という状況は、あるのではないでしょうか。

 

いろいろな感想が飛び出し、

本当に面白かったです。

ハワイのホ・オポノポノと気づきの瞑想を比較した考察だったり、とか、

中国武術の教えの体系から、目的地そのものがそもそも何なのか

を考えてみたり、、などなど。

 

一つ一つの意見感想に対する

プラユキさんのフォローの解説が、

理解を広げてくれます。

 

私自身は、こうして

仲間と話をしていること自体が

たどり着きたかった目的地の

ひとつの在り様を見ているようで、

とても嬉しい時間でした。

 

それぞれの人生において味わっていることを

もっとも純粋な、優しい気持ちで

光をあてながら、

オープンハートで共有しあってる感覚、

素晴らしい時間でした。

 

今回の感想を皆さんと共有する場面では、

「一緒に和気あいあいと、

瞑想の体験を語り合えて、

たくさんの発見があったことが

本当に嬉しかった」

という声が多く出ました。

(瞑想合宿を企画して本当によかった。涙!)

 

プラユキさんのもとに集うと、

自ずと、みなさん心が開かれて、

共有しあう歓びに溢れていく。

 

こんなにも「善友」の縁を

実感できる場が生まれるのは、

本当に、プラユキさんあってのこと。

 

プラユキさんという存在に、

あらためて感謝の思いでいっぱいです。

 

私たちに、気づきから生まれる歓びと慈しみ、

そして、

智恵の自由さを教えくてくださることに、

本当に感謝いたします。

ありがとうございます。

 

今後も、「気づきの瞑想」を通して、

善友の輪が広がる場に、

多くの仲間とつながれますこと、

お祈り申し上げます。

 

~~~

さて、こうして、今回の瞑想リトリートは

大成功で幕を閉じましたが、

プラユキ師の瞑想会の企画は、

まだまだ続きます。笑

 

次回は、4月15日(土)に

都内で瞑想会を開催いたします。

みなさんと、お会いできますことを

心から楽しみにしております。

 

ご一緒に、よき縁となしていく歓びを

味わっていきましょう。