「今、習慣にしていることは何ですか?」

と聞かれた時、スッと頭に浮かぶもの、ありそうでしょうか。

美容や健康、趣味や家事、学びにお世話…いろいろ出そうですよね。

ヨーガ経典には
「習慣(アビヤーサ)として行うものこそ、
私たちを本来の純粋な状態へと導く」
という教えがあります。

「人間は習慣の生き物」
と言われますが、
習慣にできる、ということは、
それだけ、自分にとって大事なもの、
命の営みの基本、と言えそうです。

単なるセルフケア、生活のメンテナンスという以上に、
その習慣を行うことで、

『より自由な自分になっている』
『より安らいで思いやりのある自分になっている』

その側面を自覚せよ、と教えは語ります。

どうでしょうか?

そう思うと、その習慣を丁寧に心をこめて、やりたくなりますね。笑

実はこれ、もう一つの教えが対になって登場します。
「離欲(ヴァイラーギャ)=手放す」です。

本来の自分に返る時は、
本来の自分でないもの(しがみついていたもの)を手放す時でもある。

その習慣をやる時、
どんな執着を、
どんな不安を、
どんなイライラを
手放していますか?

そんな問いも自分にしてみるといいかもしれません。

私がよくやる習慣は、水回りの掃除ですが、
それをすることで…

『軽率に物事を判断する心』
を手放しているような気がします。

(水回りって、やりっぱなしにすることが多いんですよね、、、
それをふき取ることで、ちゃんと全体を観ようとする、というか)

何を手放し、どんな自分に返るのか。
内側に聞きながら習慣を行うと、いい自己理解の時間になりそうです。

心の浄化は、日々の習慣が支えてくれますね。

 

 

 

 


 

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連休明けの日常、心地よく過ごされてますか?ニコニコ

日本の民俗学には「ハレとケ」という考えがありますね。

非日常的なお祭りや行事をハレ、ふだんの生活をケとし、
ハレを時折体験することで、日々の病気や不調の「ケガレ(ケが枯れる)」を清める、

そんな意味があるようです。

ハレは、家庭や社会の「立場や役割」から解放され、

一人のヒトとして、歓びや悲しみを外に表現し、他者と分かち合う時間。
命の営みを、これで調整しているのですね。

この連休は、自分にとって、どんなハレになったのでしょう?
ハレが足りない、多すぎた、いろいろあるかもですね…苦笑

私はヨーガのおかげで、

ケの中のハレを、ハレの中のケを楽しめるようになりました。
一日の中に、両方を体験する自由が増えた実感があります。

役割を淡々と行う私と、解放を存分に楽しむ私の共存。
ヨーガは、「どちらかでなく、どちらをも」にある両極自在の道ですね…!

連休が終わり、日常のケに戻りましたが、

必要な時には、他者にも自分にもハレを与えられる自由を生きたいものです虹
 

悠久の生命力を感じる…!(長野・川中島古戦場の神社)

 

 

 

 

 

 


 

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歳をとると、ずっと同じ姿勢でいたあとは、体が固くなって大変です(苦笑)笑い泣き

これ、皆さん「じっとしていたせい」と思いますが、本当は
「意識が『今ここ』になかったせい」
なんですね。

体を動かしいるときは、不注意なことが起きないよう、
意識は、それなりに『今ここ』にいます。

ですが、日常で動きを止めた時というのは、
スマホやテレビに没頭して、自分の妄想にハマりこむ時がほとんどです。

そう、これは、「“没頭”という静止」なんですよね。

実は、ヨーガはこの対極にあって
「“集中”という静止」に親しんでいくものです。
 

集中は、今ここで「自分自身がどうあるか」につねに気づこうとします。

この「集中による静止」が全体に行き及ぶと、
体は固くなるどころか、むしろ最適な血行状態、生理リズムを生じさせます。

たとえば、アーサナで全身の感覚を観るとき、
伸びているところ、だけでなく、
縮んでいるところも、平等に観ます。

そうすると、呼吸の変化とともに、
伸びている中にも「伸び縮み」があることがわかる。
締まった中にも「締まり緩み」がある。

ふだん気づいてない、無意識下で働いている
「微細な感覚の変化」が、よく理解できます。

つまり、リキミで固まらない、
私たちの体に本来備わった“自由自在な働き”が、
「静止して観る」で、十分に引き出されます。

ヨーガだけでなく、人生のいろいろなシーンで、
動きを止めて、今ここの感覚に親しみたいものです。

没頭ではない、集中の静止を、
人生の味方にできるのがヨーガですね。

はい、気持ちよく静止しました~

 

 

 

 

 


 

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WBCの優勝、歓喜のニュースで湧きましたね。
皆さんも堪能されましたか?

私は、ヨーガに親しんでから、勝負事の見方がだいぶ変わりました。

 

『ヨーガとは、成功も失敗も平等に観る』

という経典の言葉よろしく、

勝ち負けも、どこか平等に観てしまう。

 

勝利を応援しつつも、もし負けたとしても、

そこから始まる選手の人生プロセスの「尊さ」を思うと

どちらもあり、と思って静観してしまう感じです。

 

スポーツの興奮を、瞬間的な勝利より

人生を通して理解するもの、のほうに重きを置く。

明らかに選手に向かない気質ですね。笑

(一流のスポーツ選手に共通するのは「負けず嫌い」ですからね)

 

 

さらにヨーガの

『苦の理解から、人生の智恵は始まる』

という識別智(四聖諦)の教えもあり、

とくに「負けた側(苦を体験する側)」に注目することも多いです。

 

準決勝で逆転サヨナラを許したメキシコの投手には

「こんな強烈な苦を体験するとは、

魂レベルでは、よほど偉大な幸福を人生で見出そうとしているに違いない」

と、願いも込めて、

その後のプロセスを祈りたくなります。

 

勝っても、負けても、その結果より、

試合内容そのものが、選手にどんな意味をもたらすのか、

その後の人生にどんな影響があるのか、
人生の「プロセス」として観たくなります。

 

もっとも、選手本人でないので、

インタビューを見つつ、あとは妄想の世界で話を広げるだけですが。笑

 

でも、選手の気持ちになりながら、

勝ち負けを超える何かに触れていけるのが、

スポーツがもたらしてくれる偉大な価値と言えますよね。


~~~
さて、

こうしたヨーガの「全体に開かれる目」というのを

栗山監督のインタビューにも感じました。

試合後

「優勝までの全試合を振り返った時、

優勝へのカギとなったのはどこだと思いますか?」
と問われ、

「この素晴らしい選手たちを、

長年に渡って育ててくださった

指導者や家族があってこそだと思います」
と、答える監督。

質問の意図には答えていませんが、

「偉大な結果をもたらすには、

偉大な原因に思いを馳せてこそ」

という指揮官の深い思いが伝わります。

全体のプロセスをつねに観て、

その全てを信頼しているのだと感じました。

私も、

人生をつらぬく最高の歓びをもたらすものは、

日々の経験の一つ一つにある、

ということを大事にしたいな、と思いました。

 

 

(若い頃はCDデビューもしていた栗山監督!)

 

 

 

 

 

 

 


 

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皆さん、今年の花粉症はいかがでしょうか?
私は、絶賛体験中です…苦笑

三大症状である
「くしゃみ、目のかゆみ、鼻のつまり」

私の場合、
「あ、きたな!」
と思ったら、
すぐ「ヨーガの内観」で
症状をリセットしてしまいます。

そう、感覚反応を、

何事もなかったように、

落ち着かせてしまうのです。

これ、ある程度の訓練で、できるんですね。

アレルギー反応も、基本は
「神経の認知活動」ですので、
本来、「気」を扱う身体術が
得意とするところと言えそうです。

実際に、どう内観するの?
と言うと…
その前に、
ちょっとヨーガの考え方を。笑

~~~~~

もともと、ヨーガは
感覚を「観る側に立つ」ことで
感覚に「反応する側にいかない」
訓練です。

反応に引っ張られず、
感覚そのものを観る。

観るということは
「見えていなかったものを見ようとする」
ことで、

まず基本は、
「気づかなかった微細な感覚に気づく」
ことから始まります。

でも、深いヨーガ体験に慣れていくと…

観るということは、すなわち
「物事全体のプロセスを見渡すこと」
である、とわかってきます。

つまり、
見えていなかったのは「全体の在り様」。

もし「目の前のこと」しか見てなければ、
つねに外の出来事に反応して、

心が動揺しますね。

なぜ、ヨーガをして、

物事に動じることが少なくなり、
トラブルへの対応力が身につくか
というと、


「これは、いずれこうなる」
というプロセスを見極める力がつくからです。

(このへんの、
ヨーガの意識と人生体験のメカニズムに
ご興味がある方は、ぜひ
ご一緒にヨーガをしましょう)

ちなみに、

プロセスというのは、何であれ、

 

「無理のあるものは続かない。
無理のないところに至る」
 

が、鉄則ですね。

物事の道理です。

 

~~~~~

 

さて、そんなわけで、

くしゃみが出そうな感覚が感じられると、

 

私は、さっと目を閉じ、

鼻腔の感覚全体とつながり、

くしゃみしたい感覚を感じながらも、

「すでにくしゃみが終わっている感覚」
にも、つながります。

もっと言うと、
「くしゃみしなくても平気な状態の感覚」
と、つながります。

そうすると、すっと反応が消えていく。

そう、私たちは、
日常のプロセスとして
そうした感覚反応が出ても
「やがておさまる」
ことを体験的に知っていて、
おさまったときの感覚反応も知っています。

その反応が
「すでに自分の内にある」
として観ることができる。

こうした"広さ”が、
ヨーガの内観の醍醐味ですね。

くしゃみをする必要のない感覚は、
そのまま、経験として現れる、

というわけです。

(実際は、手を患部にあてて観じると、
さらに早く、沈静効果が高いです。
パーミングという技法ですね)


もっとも、ヨーガをしていなくても
これを実践している方もいらっしゃいますね。

体調が悪いとき、
すでに治った時の感覚に意識的につながって
回復を早めてしまう。

「(すでに治ったときの)自由に軽快に動いている」
その感覚を、今ここで観じる。

私も、よく包丁で指を切りますが
毎回、これで回復を早めているつもりです。笑

さらには、体調だけでなく
「直観のひらめき」
も同じでしょう。

智慧のある人ほど、いずれ起こる

「全体にとって無理のない調和」
を見ているから、

それ相応の理解力&行動力があるのかもしれません。


~~~~~

さて、こんな話を書きましたが、
じゃ、私は花粉症に悩まされないの?
と言えば、
多いに悩まされます。笑

内観モードじゃない時が
いくらでもありますし、
症状がリセットするまで
時間がかかる場合も、当然あります。
(残念ながら、私はその程度のレベルです)

とくに今年の花粉は強い!
先週、もう薬を飲んじゃいました。笑

でも、薬の効き目は時間で落ちますからね、
症状が緩和されたら、
沈静を試すチャンスです。笑

最終的には
「花粉症を通して
自分が何を経験したいのか」

それが見えた時、
自分の花粉症は終わるだろうな、
と思っています。

つまり、プロセスの総体。

 

なんとなく、あれかな~と思いながら、
今はまだ、プロセスの只中です。笑

まあ、プロセスを楽しむのも、人生の醍醐味。
そんな余裕の心で、
花粉症の季節を乗り切りたいものです。笑

 

写真は代々木公園の河津桜です

 

 

 

 

 

 


 

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